歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

仏教と政治―史的総覧(連載第29回)

十 東南アジア諸王朝と仏教

カンボジア王朝と仏教の変遷
 今日の東南アジアで仏教徒の割合が特に高いのはカンボジア、タイ、ミャンマーの三国で、いずれも九割を越える圧倒的な仏教優勢国である。その仏教はいずれも上座部系で共通している。ただ、仏教伝来のルートや態様には相違がある。
 実際のところ、上記三国に先立って仏教が伝来したのは今日では圧倒的にイスラームが優勢なインドネシア地域であり、5世紀にはスマトラ島に伝来したと言われる。そして7世紀から14世紀にかけてのシュリーヴィジャヤ王国が大乗仏教を信奉したほか、8世紀から9世紀にかけてのジャワ島のシャイレーンドラ王国も同様であったが、15世紀以降この地域の諸国は順次イスラーム教に改宗されていく。
 冒頭の三国中で最も早くに仏教が伝来したのはカンボジアであった。カンボジアが仏教国となるまでの経緯は複雑である。まずカンボジアには6世紀から9世紀にかけてクメール人王国真臘が存在した。真臘はカンボジアからベトナムにまたがって存在していた扶南国の属国からスタートしたため、ヒンドゥー教と仏教が並存していた扶南国の影響を強く受けていた。こうしたヒンドゥー‐仏教並存体制は以後しばらくはカンボジアの基調となる。
 真臘国は8世紀後半から9世紀初頭まで前記シャイレーンドラ王国の侵略・占領を受けたが、シャイレーンドラ王朝は大乗仏教を信奉し、世界最大級の仏教遺跡であるボロブドゥール大寺院を建造した。そこから独立して建国されたカンボジアのアンコール王朝は基本的にヒンドゥー教国家して出発するが、大乗仏教の影響も受け、大乗仏教が第二宗教的な位置を占めるようになった。
 転機となるのは、1181年に即位したジャヤーヴァルマン7世の治世である。彼はベトナム中部にあったヒンドゥー教国家チャンパ王国との戦争で荒廃した時期に即位し、復興を担った。その際の平和国家の理念として大乗仏教を置いたのであった。その点では、古代インド・マウリヤ朝アショーカ王とも類似している。
 ジャヤーヴァルマン7世はヒンドゥー教由来の「王は神の権化なり」とする統治理念を「王は転輪聖王(仏教における理想王)なり」とする仏教的な理念に置換して、仏教国治の支柱としたのである。その点では、モンゴル元朝のクビライとも共通するところがある。
 一代で王国の繁栄を築いたジャヤーヴァルマン7世は在位中多くの仏教寺院を建立したが、伝統のヒンドゥー教も排除することなく、バイヨンのようなヒンドゥー‐仏教習合的な宗教施設も建設している。また彼はタマリンダ王子をスリランカに留学させ、当地の上座部仏教を学ばせた。
 王子が帰国後、カンボジア上座部仏教を普及させて以降、カンボジアでは貴賎を越えて広く上座部仏教が浸透し、社会総体を仏教化する契機が開かれたのである。これはカンボジアでは上座部仏教が極めて階級横断的な形で布教されたためと言われる。
 ジャヤーヴァルマン7世の没後、アンコール朝は衰退し、モンゴルの侵攻を受けた13世紀のジャヤーヴァルマン8世の治世では廃仏・ヒンドゥー回帰の政策が採られたが、1295年にクーデターで王位を簒奪した娘婿のインドラヴァルマン3世は自ら信奉していた上座部仏教を改めて国教に据えた。
 これ以降、カンボジア上座部仏教国として定着したが、国はタイやベトナムの侵略を受けるようになり、15世紀前半に首都アンコールが陥落して以後は都を転々とする流浪の歴史となる。この先、19世紀後半にフランス植民地となるまでの数百年間はカンボジア史において「暗黒時代」と呼ばれる閉塞の歴史であった。
 この長い閉塞の時代、とりわけたびたび侵略したタイの影響力が増大し、19世紀にはタイ流上座部仏教の二大教団の一つで後発のタンマユット僧団がカンボジア王室の庇護の下に拠点を築き、マハー僧団との対立を引き起こすことになる。
 なお、フランス植民地治下でベトナムラオスとともに仏領インドシナに併合されたカンボジアでは、仏教僧ないし仏教主義者による聖戦的な反仏闘争が展開され、仏教は独立闘争のシンボルともなったところである。