歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第45回)

第十章 天智天皇天武天皇

(3)後期天智政権

甲子の宣
 筑紫遷都失敗の後、天智天皇らが筑紫をいつどのように撤収したのかが『書紀』の記述では今一つはっきりしない。ただ、天智は663年9月に百済から救援軍を撤退させた後、翌664年2月9日には「大化の改新」の続編とでも呼ぶべき重要な項目を含む宣言(甲子の宣)を実弟大海人皇子(後の天武天皇)を通じて発した。
 これは、白江会戦での惨敗、百済滅亡の確定という事態を経て、孝徳天皇死去後10年近く先延ばしにされてきた大王(天皇)至上制の確立へ向けた施策を再開したものと見られる。そこで、この甲子の宣発布の664年から近江遷都を経て天皇が死去する671年までの間を「後期天智政権」と呼ぶことにする。
 この「後期天智政権」の始まりを画する甲子の宣の柱は次の三項目にまとめられる。
 第一は、大化5年の冠位十九階を二十六階に細分化したことである。これは「改新」の時の冠位増設の拡大版にすぎないが、この時期に冠位の大幅な追加増設を急いだのは、天智が百済滅亡に伴う多数の亡命百済人に冠位を大盤振舞いすることを検討していたためである。
 実際、天智は近江遷都後に亡命百済王族、官人ら数十人に一挙に冠位を授けたので、時の人は「橘は己が枝々実れれども玉に貫くとき同じ緒に貫く」(橘の実は各々異なる枝になっているが、玉として緒に通す時は皆一本の緒に通される)という童謡(わざうた)を作って、身分も能力も無視した冠位の乱発をそしったという。こうした政策にも、天智の百済への傾斜ぶりがよく表れている。
 第二は大氏・小氏・伴造等の氏上(氏族長)を定め、大氏の氏上には大刀、小氏の氏上には小刀、伴造等の氏上には楯・弓矢を下賜したことである。
 これは中央豪族を三等級に分けたうえで、その格式に応じて天皇が武具を下賜するもので、実弟天武天皇時代に導入された八色の姓制度の原型ともなるような貴族等級制度であり、先の冠位制度が氏族横断的な官人の等級制度であったのに対し、氏族三等級制は氏族ごとの格式を区分けし、氏族長を天皇が公式に認証することを通じて、全氏族の上に超越する天皇の至高の存在性を明確にすることに狙いがあった。
 ただ、全氏族についてこうした氏上の選定が徹底するのは天武天皇時代の680年代のことであり、それが八色の姓制度の基礎となっていく。
 第三は、各氏族の民部(かきべ)・家部(やかべ)を朝廷が定め、支給することである。これは伝統的には各氏族に属してきた部の成員である氏族(部曲)と奴隷たる家部とを朝廷が定めて支給することにより、「大化の改新」の目玉でもあった公民制をスローガンにとどまらない制度として確立することを目指したものである。
 天智が以上のような諸施策を白江敗戦から間髪を置かずに発表したことには、重大な内政改革の断行によって、筑紫遷都・敗戦という失政による自身の威信低下を防止する意図も働いていたと考えられる。

唐・新羅との講和
 後期天智政権の外交上の最優先課題は唐・新羅との早期講和であった。敗戦の翌年、664年5月には唐の百済占領軍の使者を迎えて交渉を開始している。
 ただ、この時の交渉は決裂した模様で、天智政権は翌年にかけて対馬壱岐筑紫国などに防人と烽(のろし台)を置き、筑紫に水城(貯水した大堤)を築造したほか、亡命百済人の築城専門家を使って長門国筑紫国に城を築かせるなど、九州北部を中心に入念な防備体制の整備に努めている。
 おそらくこの時点では、いったん外交交渉決裂を受け、唐の侵攻を想定した国防体制整備を進める一方、水面下ではなお唐との交渉を続けていたと見られる。その結果、665年には総勢254人から成る唐の使節団を飛鳥の都に迎えて正式に講和が成立し、早速使節団の送使をそのまま唐に派遣している。
 これによりひとまず唐の脅威は去ることになったが、天智政権は警戒を解くことなく、近江遷都後の669年にも畿内防衛の拠点として高安城を築造するなどしている。
 一方、新羅との講和はやや遅れ、近江遷都後の668年9月のことであった。この時、天智政権の首相格として内大臣の座にあった中臣鎌足(鎌子)が久々に表に現れ、新羅の上臣(首相)・金庾信―6世紀前葉の新羅に併合された旧金官加耶国王の末裔で、対百済戦でも活躍した武人―に船一艘を贈呈しているところを見ると、新羅講和は鎌足が主導し、大臣レベルで行われたものと考えられる。
 このようにして曲折はあったが、白江敗戦後ほぼ5年以内に唐・新羅との講和が実現されたことは、倭国の国防上の脅威を除去すると同時に、敗戦による天智政権の威信喪失を食い止めることにも寄与したことは間違いない。

近江遷都と「日本」
 『書紀』の叙述からすると、後期天智政権は白江敗戦・撤退直後に筑紫で暫定的に始められたものと推定されるが、その後、665年10月には唐の使節団を迎えて菟道で盛大に閲兵したとあるので、この時までにはひとまず畿内(飛鳥)の旧王都へ帰還していたことが確認できる。
 そのうえで、667年3月に近江へ再遷都する。孝徳政権末期の無血クーデターによる飛鳥遷都から数えると四度目の遷都となる。しかも、二度目の畿外遷都である。今回はなぜあえて近江なのかということははっきりしないが、天智は近江を本貫とした息長氏系の舒明大王の子として息長氏王統に連なることからのゆかりであるかもしれない。
 また、いつ頃近江遷都が計画されたのかもよくわからないが、『書紀』の斉明紀には659年3月、「斉明天皇」が近江を視察した記事が見えることから、前期天智天皇の時代から、実母の皇祖母尊の発案で計画されていた可能性もなくはない。
 いずれにせよ、近江にあっても湖と山に挟まれた狭隘な地・大津に王都を置くという異例の遷都プロジェクトを実行した実際的な理由の一つは、やはり国防であったかもしれない。というのも、唐は百済を滅亡させた後も、朝鮮半島支配を通じた極東進出戦略をなおも進めており、668年には新羅と合同でついに軍事強国・高句麗をも滅亡させたからである。
 しかし、遷都理由はそうした当面の政策的な理由ばかりでなく、最終的に百済ルーツを喪失した後の新しい国作りに着手するための人心一新の策という積極的な意味も帯びていたと考えられるのである。
 この点で注目されるのは、『三国史記新羅本紀文武王10年条(670年)に、「倭国が国号を日本と改めた」とあることである。一般に「日本」という国号の使用は天武天皇時代からと考えられてきたが、実際はもう少し早く、近江遷都と同時に国号改定がなされた可能性を示唆するのがこの記事である。
 記事が記す670年という年代はちょうど新羅と講和した668年とも近いことから、天智政権は対新羅関係で初めて「日本」を号したということも十分に考えられ、『三国史記』の前記記事の信憑性はかなり高いと思われる。
 「日本」という国号の由来については、かつて603年の第二回遣隋使の時に持参して皇帝の不興を買った国書の文言「日出ずる処の天子」に由来すると言われる。そうだとすると、皮肉にも、若き日の天智が参加した乙巳の変で打倒した蘇我朝が発した国書文言が参酌されたことになる。
 思うに、すでに百済を滅亡に追い込み、朝鮮半島統一に邁進していた宿敵・新羅と講和し、百済ルーツ喪失後の独自的な国家として新羅と向き合っていくうえで、60年以上も前の対隋「対等外交」で使われた国書文言が国号として改めて利用されたのではないだろうか。
 こうして、新生「日本」は近江で始まった。そしてこの独自国家「日本」は同時に一つの歴史観の源泉ともなり、そこから王朝ルーツ百済をも含めた朝鮮全体を劣等視し、古来「日本」に従属してきたかのようにみなす史観(朝鮮蕃国史)が発生した。この史観は『書紀』の基調を成しているばかりか、それを通じて現代の通説古代史、ひいてはそれをベースに構築される歴史教育にも今なお投影され続けているのである。
 天智はこの新生「日本」の「天皇」として改めて天皇至上制を徹底していくため、たわごと・流言禁止令を発して言論統制を敷くなど、独裁体制を固めた。
 そのうえで、670年2月には史上初めての体系的な戸籍制度(庚午年籍)を創設した。これは律令制の先駆けと言えるもので、8世紀の律令制本格導入後も、永久保存が義務づけられたほどの永続性を保った画期的な制度であった。
 この後、『書紀』によると、天智天皇の治世最終年となった671年1月には大海人皇子が詔して冠位・法度を施行したとあり、これは史上初の「令」としての「近江令」を指すとも言われるが、その内容が明確でなく、実在を疑問視する説が強い。
 天智が天皇至上制の切り札として唐風の律令制整備を構想していたことは間違いないが、「近江令」という形で完成されるには至っておらず、さしあたりは同年に新設された太政大臣の制度などを定めた新法令の施行があったにとどまるというのが真相であろう。
 天智があと5年ほど余分に生きていれば「近江令」の完成を見たかもしれないが、血塗られた政変、謀略や対外戦争に心身を費やした天智にはもはや余力が残されておらず、671年9月に発病、12月には死去する。
 享年46歳は上流階級でも短命であった古代人としては決して夭折ではないが、まだ体制が固まったとは言い難い後昆支朝にとって、天智の死はいささか早すぎたのであった。