歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第17回)

第四章 伊都勢力とイヅモ

(3)イソタケルと出雲西部勢力

植民市イトモ
 前回見た伊都勢力の移動ルートの中で、本章の主題にとって最も重要なのが「日本海ルート」である。
 元来、伊都国の勢力圏は九州北部沿岸地域を通って、本州側の長門付近まで及んでいた可能性がある。というのも、大加羅王子(大加羅は5世紀後葉以降に台頭する加耶諸国の一つ)を名乗る渡来人・都怒我阿羅斯等[ツヌガアラシト]が穴門(長門)に漂着した際、国王を自称する伊都都比古[イツツヒコ]が阿羅斯等を足止めしようとしたという逸話が『書紀』の垂仁紀に記されているからである。
 この時、阿羅斯等は伊都都比古が王であるはずがないと判断し、自発的に穴門を離れたというが、この伊都都比古(=伊都の比古)は伊都国の王ではないにせよ、長門を管轄する伊都国王の代官であった可能性はある。というのも、『魏志』には伊都国の副官に「柄渠觚」(ヒコ?)があると記しており、これは「比古」とも通ずるからである。
 また、前に見た五十迹手の服属場面でも、彼は仲哀天皇を穴門の引島(彦島)―代官比古が駐在していた島か―に迎えているので、少なくとも下関付近までは伊都国の勢力圏であったかもしれない。
 そのため、五十迹手を服属させた仲哀天皇長門に宮を建てたとされるように、畿内王権も伊都国征服に当たっては長門の征服を試みたようである。
 そこで、日本海ルートを辿った伊都勢力は、征服された長門を越えて石見から出雲西部へ移動し、この一帯に定住したものと見られるのである。
 そのことは、前に述べた石見の五十猛の地名や五十猛神社の存在、さらに『延喜式神名帳によると、出雲国イソタケルを祀る韓国イダテ神社が六社も存在することで裏づけられる。ここでは「韓国」とイソタケルが渡来神であることが明示されている。
 このように、日本海ルートを辿った伊都勢力が入植した所(おおむね後の出雲郡を中心とする地域)がイトモ(=伊都面)と名づけられたのであり、実はこれこそが元来のイヅモの由来と考えられるのである。
 このイトモが旧伊都国のような世襲の王を擁するクニに発展したかどうかは不明で、さしあたりは水軍勢力の首領に統率された軍事的な植民市であった可能性が高いが、首領は伊都国の伝統に従い、「爾支」ないし「尼師今」のような首長号を名乗ったと見られる(これについては第七章で改めて触れる)。
 このような植民市イトモが伊都勢力の大移動の渦中で建設されたのは、以下で検証する理由から5世紀前半の中頃のことと推定される。

出雲大社の前身社
 大国主大神を盛大に祭祀する出雲大社は今日、まさにイヅモの象徴として君臨しているが、同大社が現名・出雲大社を名乗るようになったのは明治初期からのことにすぎず、古代以来、杵築[きづき]大社と呼ばれていたことが『延喜式神名帳でも確認できる。
 しかも、出雲大社の祭神が大国主であることが史料上確認できるのは、イヅモが畿内王権の支配下に入り、出雲国造新任時に朝廷で奏上する「出雲国造神賀詞」が確立されて以降のことにすぎない。すると、出雲大社の前身たる杵築大社の原祭神とはいったい何だったのであろうか。
 そのことを推定させるかすかな手がかりとして、今日でも出雲大社式内社としてスサノオを祀る素鵞社[そがのやしろ]が『延喜式神名帳で韓国イダテ神社を式内社に持つ出雲神社の論社(推定神社)とみなされていることが注目される。
 この推定が正しいとすれば、出雲大社の前身たる杵築大社の原祭神はやはりイダテ、すなわちイソタケルであったと見てよいのではないだろうか。
 いずれにせよ、杵築大社は植民市イトモの宗教的中心であると同時に、海に近い立地からして水軍の出撃基地でもあった可能性があり、イトモとはこの杵築大社を中心として伊都勢力が周辺の沿岸地域を強力な水軍力によって支配した一種の軍事的な都市国家であったと見てよいと思われる。

新羅侵攻の継承
 伊都国がそのルーツである辰韓系伊西古国と斯盧国(新羅)との歴史的な反目を背景として「反新羅」の旗色を鮮明にし、たびたび新羅侵攻を繰り返していたことは前節で述べたが、日本海ルートを辿ってイトモを建てた伊都勢力もこの「反新羅」の大義を忘れていなかったと見られる。
 『三国史記新羅本紀によると、5世紀代に入ってもなお倭の侵攻が20回近くも記録されているが、同世紀半ばを過ぎると、一定の外交関係を前提とした紛争と思われるものはほとんど見られなくなるとともに、王都・金城を攻囲するような大規模な侵攻も影を潜め、新羅東海岸を海賊的に寇掠するような侵攻が多くなる。
 これは4世紀後葉に伊都国を服属させて以来、旧伊都国の水軍力を利用しつつ大規模な新羅侵攻を敢行していた畿内王権が何らかの理由(後述)で5世紀半ばより反新羅の姿勢を改め、新羅侵攻を停止する一方で、イトモの伊都勢力―出雲西部勢力―は5世紀後半になっても海賊的な新羅襲撃を繰り返していたことを示している。
 かれらは伊都国時代の古い思考を捨てることができなかったことに加え、「金銀のある新羅」でおそらくは奴隷を含む物資を確保する経済的動機からも、杵築大社を出撃基地として一種の海賊活動を展開していたものであろう。
 畿内王権がまだ全国的な王権に発展しておらず、やがて東側から台頭してくるもう一つの出雲勢力―出雲東部勢力―もまだ伸張していなかった5世紀後半は、イトモにとって繁栄の時代であったかもしれないが、世紀の変わり目頃になると、かれらの命運は―そうとは意識されないまま―もう尽きかけていた。
 おそらく、植民市イトモの繁栄は、由緒ある伊都勢力にとっては、最後の輝きであったかもしれない。