歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第16回)

第四章 伊都勢力とイヅモ

(2)伊都勢力の由来と大移動(続き)

伊都勢力の東遷・拡散
 ここでイソタケルについて紹介する『書紀』の別伝第四書にもう一度立ち戻ってみると、イソタケルは持ち帰った樹木の種を筑紫から始めて大八洲国に播き殖やして、一つ残らず青山に変えたというのであった。
 このことが暗示しているのは、伊都国を母体とする伊都勢力がやがて大移動し、東遷・拡散していった現象である。
 こうした大移動が発生したのは、伊都国が畿内王権に服属した後、5世紀前半のことと推定される。その要因としては、伊都国の中でも畿内王権への服属を潔しとしないグループが本国を離れて順次東遷・拡散していったことが考えられる。
 伊都勢力は沿岸部の伊都国から発祥したため、本質上流動的な水軍勢力であり、移住先で古墳群を形成するようなことはなかったが、イソタケル信仰を広く伝播させた。事実、イソタケルを祀る神社は全国に数多く、まさに「大八洲国」に広がっている。
 ただ、この拡散は必ずしもランダムではなく、いくつかのルートに整理することができる。そのルートを大別すると、糸島半島から瀬戸内海を辿って播磨を中間到着点としつつ、さらに近江から若狭湾を通って但馬方面へ抜ける「内陸ルート」と、同じく瀬戸内海を辿って紀伊半島に入り、さらに伊勢から太平洋沿いに伊豆半島へ移動する「太平洋ルート」、また長門から日本海沿いに石見、出雲西部へ移動する日本海ルート」と三つのルートを確認できる。
 はじめに「内陸ルート」を見ると、このルートは『書紀』でアメノヒボコが辿ったと記される経路と重なる。アメノヒボコはまず播磨へ渡来してきたというが、この播磨には前章でも触れたとおり、まさに因達里[いだてのさと]という古地名があり、イソタケルと実質上同一神である射楯神を祀る射楯兵主神社が所在するし、伊都村というそのものズバリの地名もあった。
 今日の姫路市を中心とするこの一帯には、新羅神社など新羅にまつわる社名や古地名も多いが、アメノヒボコゆかりの「新羅」とはまさに辰韓系伊西古国の系譜に連なる伊都勢力の足跡を示すものと言える。
 アメノヒボコはその後、近江へ移るが、その通り近江にもイソタケルを祀る神社が散在しており、特に若狭へ連なる湖西地域には「新羅」にまつわる社名・古地名が集中する。
 一方、アメノヒボコが最終的に定住したという但馬には、一宮として有名な出石神社アメノヒボコを祀っている。この出石とは『書紀』でアメノヒボコが持参したと記される七種の宝物の一つ、「出石の小刀」に由来するというのが通説であるが、「いずし」を分析すると、『記』では「伊豆志」と表記されていることからして、伊都県主の祖・五十迹手を仲哀天皇がほめて名づけたという「伊蘇志」とも通ずるところがあるので、これも伊都勢力にちなむ地名と解釈することができるのではないだろうか。
 ちなみに、アメノヒボコが但馬の在地豪族・太耳の娘・麻多烏[またお]をめとって生んだ但馬諸助[たじまもろすく]の五世孫が神功皇后の母・葛城高額媛になるということは第一章でもすでに見たが、この系譜伝承は、要するに神功皇后の母方が伊都勢力の血を引いているという事実を示しているわけであり、神功皇后が「新羅神」として神格化されるのも、この辰韓系伊都勢力との血縁においてなのである。
 以上の「内陸ルート」と途中まで同一経路を辿って分岐したのが、「太平洋ルート」である。これは瀬戸内海から播磨へ入らずに、直接に紀伊半島へ入るルートである。
 『書紀』の別伝第四書によると、イソタケル紀伊に鎮座しているというのであった。実際、紀伊には名草郡(和歌山県西部)に属した地域を中心に、イソタケルを祀る神社が集中する。特に、伊太祁曾[いたきそ]神社伊達[いだて]神社名神大社社格も高い。
 紀伊国は木国であり、樹木の神でもあるイソタケルが木材の一代生産地・紀伊国に鎮座するのは自然である。おそらく水軍勢力である伊都勢力の一部が紀伊を定住地に選んだのは、船材に用いる樹木が豊富であったことによるのであろう。
 ちなみに、旧名草郡の東側には、その名もズバリ伊都郡が今日でも残されているのも偶然とは思えない。おそらく律令制施行前には名草郡とも一体の伊都勢力集住地域だったのではないだろうか。
 この紀伊伊都勢力の一部は、さらに太平洋沿岸を回って伊勢にも入ったようである。この伊勢という地名自体が伊蘇の転訛と考えられ、現に伊勢には有名な五十鈴川があるが、この「五十」もイソないしイトとも読めるところである。そして、伊勢にもイソタケルを祀る神社はかなり分布している。
 伊勢は、周知のとおり天照大神を祀る伊勢神宮の本拠であるが、伊勢が天照大神のメッカとなったのは、朝廷によって天照大神を皇祖神とする信仰が事実上の国教的地位をもって強制されるようになった7世紀末以降のことであって、それ以前は長くイソタケルの聖地だったのではないだろうか。少なくとも、垂仁紀に架上されている伊勢神宮の由緒をそのまま受け取ることはできない。
 ただし、伊勢神宮の前身と見られる最初の斎宮五十鈴川のほとりに建て、「磯宮」[いそのみや]といったと記されるのは示唆的で、伊勢一帯が本来、イソ(五十)と呼ばれていたことを推測させる。
 ところで、伊勢から遠州灘を渡れば伊豆半島に到達するが、この伊豆半島にも来宮[きのみや]神社を中心にイソタケルを祀る神社が多く分布しており、イソタケルのみを単独で祀る神社もあるほどである。
 この「来宮」とは「木宮」とも表記できるところで、本来は木材または船に関わる社名であろう。応神紀に応神天皇伊豆国に命じて官船「枯野」を建造させたとあるように、古代の伊豆は造船工房でもあった。
 そもそも伊豆という地名も、イトないしイソの転訛であることはもうおわかりであろう。「伊豆国」とは、まさに東日本における「伊都国」そのものなのである。
 最後に、日本海沿いに長門から石見を経て出雲西部へ移動する三本目の「日本海ルート」であるが、これはまさに本章の主題と直接に関わってくることであるので、節を改めて論じることにしたい。