歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第21回)

第五章 「倭の五王」の新解釈

(4)「武」の解明  

「武」の独自性
 『宋書』によると、興が死去した後、その弟・武が立ち、宋にとっても王朝最末期の478年(その前年の遣使記録もあるが詳細不明)に遣使してきたことが記録される。この「五王」最後を飾る武の遣使にはいくつか独自な点がある。
 まず、かつて済が叙任されていた「使持節都督六国諸軍事」に、珍以来再び「百済」を加えて、「使持節都督七国諸軍事」を自称したうえ、「安東大将軍、倭国王」を名乗り、上表文中では新たに「開府儀同三司」という称号も請求したことである。
 ここで「開府儀同三司」とは宋朝中央政府の三大高官である三司(大尉、司徒、司空)と受ける儀礼が同格で、府(官庁)を開設できる地位という意味の名誉称号であり、宋朝でこの称号を帯びていた外国王は四人しかおらず、その一人が時の高句麗王・長寿王であった。つまり、武は同時代に在位した高句麗王と同等の称号を嘱望したのである。
 もう一つは、武が『宋書』でもほぼ全文が引用されるほどの本格的な駢儷体[べんれいたい]漢文でしたためた上表文を提出し、その中で高句麗を特に敵視して、その無道性を訴え、高句麗征討の決意を述べつつ、開府儀同三司の称号を請求していることである。
 このことが意味するのは、武自らに高度な漢文素養があったか、もしくはそうした素養を持つ官人を擁していたらしいこと、さらに高句麗に対して並々ならぬ敵愾心と対抗意識を燃やしていたらしいことである。
 これに対して、宋側では武をさほど高くは評価せず、「安東大将軍、倭国王」は請求どおりに授号したものの、「七国諸軍事」は認めず、済と同じ「六国諸軍事」にとどまり、開府儀同三司も認めなかった。
 こうした過少な成果をもって、武の遣使外交を失敗と見る向きもあるが、武の遣使の目的は改めて「倭国王」を認証してもらうことに主眼があり、それ以上のことは積極的に希望していなかったようにも思われるのである。その証拠に、武はあれほど熱意を込めた上表文を提出しておきながら、以後中国遣使自体を中止してしまい、倭の中国外交は再び1世紀以上も途絶することになるからである。

百済亡国の危機
 では、このような独自性を持つ武―我々の仮説によれば興=百済蓋鹵王の弟に当たる―とはいったい誰なのかという問題はしばらくおくとして、ここで武が遣使した478年前後の朝鮮半島情勢を見ておきたい。
 半島では、高句麗が、4世紀末に百済を破って南は臨津江と漢江中流域にまで領土を伸張させた広開土王の事業を継承した長寿王代の427年に王都を中国大陸側の集安から朝鮮半島内の平壌へ遷し、南進政策を本格化させていた。その名のとおり、長寿を保ち80年近くも在位した長寿王は本来の宗主である中国北朝・魏のみならず、南朝・宋にも遣使して、例の開府儀同三司の称号を得るような二股外交を展開する巧みさも示した。
 これに対して、ちょうど高句麗平壌遷都の同年に即位した百済の毗有王が外交政策を転換し、新羅との同盟に踏み切ったことにより、それまでの高句麗新羅百済の対立が高句麗百済新羅の対立軸に転化したことは既に述べた。
 こうした中で毗有王は宗主である南朝・宋との関係をいっそう強化する一方、百済の侯国であった倭に対する統制強化も図って、前回見たような「偽装遣使」を始めたのであった。
 455年に父・毗有王の死を受けて即位した蓋鹵王も父王の政策を継承し、高句麗の南進阻止に努めるが、高句麗の脅威は全く減じることはなかった。そこで、彼は472年、高句麗の基本的な宗主であった北魏へ初めて遣使し、高句麗の非道性を訴えるとともに、救援軍の派遣を要請したが、北魏側は高句麗をかばう態度を見せ、軍の派遣を拒否した。
 こうした中、475年、高句麗はついに百済の王都・漢城に侵攻し、これを陥落させたうえ、蓋鹵王を殺害する挙に出た。百済側は抗戦できず、蓋鹵王の子・文周を王に擁立しつつ、南の熊津[ゆうしん]に遷都して亡命政権を樹立する事態となり、百済は亡国の危機に直面したのである。
 しかし、この熊津亡命政権も安定せず、477年には文周王が暗殺され、その子で13歳の三斤王[さんきんおう]が即位する。この少年王の下で、百済八代姓の一つ、解氏が実権を握り、独裁政治を行った。
 武が遣使した478年とは、このように高句麗が強大化し、全盛期を迎える中、百済は亡国の危機に立たされるという緊迫と混乱の極みにあった時期に当たっていたのである。

「武」の正体〈1〉
 さて、それでは倭の五王の最後を飾る「武」とはいったい誰であろうか。通説によると、「武」とは第21代雄略天皇の名、大泊瀬幼武[おおはつせのわかたけ]の「武」と符合するとして雄略天皇に比定したうえ、そこから遡って残りの四王を『書紀』に登場する天皇にあてはめようとする(その具体的な比定については諸説がある)。
 しかし、大泊瀬幼武は天皇の諱(本名)ではなく、没後に追贈された諡であるので、それがたまたま一字だけ符合する(ただし、『記』では「若建」と表記される)だけで同一視するのは、語呂合わせに等しいと言わざるを得ないであろう。
 この点、先の百済仮冒遣使説によると、『宋書』で興の弟と記される武は興=蓋鹵王の弟ということになる。ところが、朝鮮側史書の『三国史記』には蓋鹵王の弟は見えないため、『三国史記』による限り、武の該当者なしということになる。
 しかし、ここで『書紀』が一つの手がかりを与えてくれる。それは、雄略4年4月条に、『百済新撰』という今日では逸失した史書を引用する形で、加須利君[かすりのきみ](=蓋鹵王)が弟の昆支君[こんぢのきみ]を遣わしたとして、百済王弟昆支渡来の記事が見えることである。この昆支は『三国史記』では蓋鹵王の子として登場し、『書紀』(及びそれが依拠する『百済新撰』)とは食い違っている。いずれが正しいのであろうか。
 この点、『宋書百済国伝は458年の余慶(蓋鹵王)の遣使を記録するが、その時に同時に軍号を授号された重臣の一人に余昆の名が見える。この余昆は、昆支と同一人物と見られるが(余は高句麗と同系の扶余族出自である百済王家が扶余の「余」を取って姓としていたもの)、この時、この人物は百済の称号である「左賢王」を号したうえ、宋からは「征虜将軍」を授号されている。
 ここに「左賢王」とは、百済を含む北方騎馬民族系国家では君主の後継者で、軍権を掌握する高い位であるうえ、宋から受けた「征虜将軍」は蓋鹵王自身が授号された「鎮東大将軍」に次ぐ格式の軍号であるから、この昆支は相当な地位にあったことになる。
 一方、同時に授号された百済重臣に『三国史記』では蓋鹵王の子で、昆支の兄とされる後の文周王と見られる余都という人物がいるが、彼は余昆の「征虜将軍」より下位の「輔国将軍」を授号されている。
 すると、弟の方が兄よりも高い位を持ち、上位の将軍号を授与されたことになり、長幼の序に反するので、むしろ『書紀』の記述どおり昆支は蓋鹵王の弟で、蓋鹵王の子・文周は昆支の甥に当たると解した方が自然である。
 すると、蓋鹵王は『書紀』の記述どおり、王弟・昆支を辛丑年(461年)に派遣してきたと読むことになるが、この昆支派遣の目的について、『書紀』は『百済新撰』を引きつつ、天皇への奉仕のためとする。
 しかし、『書紀』は元来、神功皇后の「三韓征伐」以来、百済を含めた朝鮮半島が倭の支配下にあったとの筋書きであるから、倭を上国として百済が奉仕するという話になるが、これは、百済に関しては従来述べてきたとおり正反対であり、この時期には倭が百済の侯国なのであった。
 ただ、百済史書と見られる『百済新撰』にも同様の表現が見られるのは、おそらくこの書は7世紀後半の百済滅亡後に倭へ亡命してきた百済知識人によって編纂され、朝廷に提出された「和製」の百済史書の一つ(他に『百済記』や『百済本記』もあった)であるため、朝廷への政治的配慮から倭を上国として叙述されていたものと見られる。
 実際のところ、蓋鹵王は父・毗有王の政策を継承発展させて、王・侯制を強化し、侯国・倭への統制をいっそう強めるため、一種の総督として王弟の左賢王・昆支を派遣してきたものと考えられるのである。『書紀』によると、昆支にはすでに5人の子があったというから、「子連れ」での本格的な常駐であったようだ。
 としても、昆支が「倭国王・武」を名乗って宋に遣使したということが果たしてあり得るであろうか。

「武」の正体〈2〉
 「武」という一字名は、百済本国でも軍事を掌握する左賢王の称号を持ち、すでに宋から「征虜将軍」の軍号を授与された武人でもあった昆支がいかにも選択しそうな一字名である。
 ところが、武=昆支と解すると、『三国史記』の叙述とは完全に矛盾してしまう。というのは、彼は漢城陥落・蓋鹵王殺害の後、477年4月に兄・文周王が建てた熊津亡命政権の内臣佐平(百済王廷の首相格)に任命された後、わずか3ヶ月後の同年7月には死去したとあるからである。この死亡記事が正しいとすれば、昆支が倭国王として478年に宋に遣使できたはずがないことは明らかである。
 しかし、昆支は本当に「死んだ」のだろうか。『三国史記』は彼の死因も死亡の状況も一切伝えていない。一般的に言って、漢城陥落から熊津亡命の時期は、百済の亡国危機であり、この間の記録の信頼性には限界があるので、要人の死亡記事も鵜呑みにできない。
 この点、当時の熊津亡命政権は極めて不安定で、高句麗がその気になってさらに南下・追撃してくれば命運が尽きかねない状況であったから、そういう事態も計算に入れて、百済としては侯国・倭に海外亡命政権の受け皿として目を付けても不思議はない。そこで、すでに461年以来、倭に駐在して現地で一定の基盤を築いていた昆支を倭国王に擁立し、百済倭国を建てるという戦略が立てられたのではないだろうか。
 そうだとすると、昆支はいったん帰国して477年4月に百済の内臣佐平に就いたが、3ヶ月で倭に舞い戻って、今度は倭国王に就いたということになる。従って、477年7月の昆支の「死亡」とは、彼が倭国王に就いたため、百済王籍を正式に離脱したことを意味しているのではないだろうか。
 すると、彼は477年に倭国王に即位し、同年もしくは478年にはさっそく宋へ遣使して「倭国王・武」として冊封を受けたのである。これは従って、もはや従来のような倭国王名義を使用しての偽装遣使ではなく、名実ともに倭国王としての遣使であった。
 こう解することで、武の遣使の独自性として指摘したことの多くが解けてこよう。まず、彼が一度「倭国王」として認証されただけで満足したのは、まさにそのことに意味があったからである。
 また、百済を含めた「七国諸軍事」の除正を求めたのは、478年当時は文周王暗殺の後、少年王・三斤の下で解氏独裁が行われており、百済は内政も混乱し、まさに亡国の瀬戸際にあったから、昆支は倭国王として、従来とは逆に倭側から百済を統制する意図を持っていたものであろう。
 さらに、上表文で高句麗をことさらに敵視し、対抗上高句麗王と同じ開府儀同三司の称号を請求したのも、高句麗による漢城陥落・蓋鹵王殺害という事変の後ではごく当然であったろう。
 特に注目されるのは、上表文中で「父兄」の死に言及し、「父兄の志」を継いで高句麗征討の決意を述べていることである。ここで父とは文中「亡孝済」とも記される済=毗有王を指しているが、兄にも言及するのは殺害された蓋鹵王をしのんでのことであろう。
 ちなみに、この上表文は高句麗の無道性を強調し、高句麗が海路を妨害するので宋に到達できないことを縷々訴える文面や、自国を辺境の地とし、王自身を愚臣としてへりくだる筆法などの点で、蓋鹵王が472年に援軍を要請するため北魏皇帝に提出した上表文と酷似しており、同書を参照していた可能性もある。これも、倭国王・武が蓋鹵王の弟・昆支だとすれば、ごく自然に理解できることであろう。
 このような「武=昆支」という定式はつとに在野古代史家・石渡信一郎氏が提唱しているところであるが、次章では改めてこの定式を倭王権の系譜とも絡めながら、さらに考察していくことにする。

5世紀代の「倭の五王」とは、一連の倭国王ではない。讃と珍はたしかに倭国王畿内王権の王)であるが、済と興は倭国を侯国として統制した百済王による倭国王名義の冒用である。そして、最後の武は正式に倭国王として即位した百済王子・昆支であるという意外な結論に到達した。
では、その昆支の新王朝とはどのようにして開かれ、どのような政策を展開していったのであろうか。