歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東通史―中心⇔辺境(13)

十四 近世の関東②

 史上初めて江戸を首都に定めた幕府が過去の二つの幕府と異なっていたのは、各地の大名を封建領主として安堵し、領内自治を保障しつつ、大名の布置を中央で人事異動的に統制する形で封建制と集権制とを使い分ける巧妙さにあった。
 結果として、北は北海道から南は鹿児島まで藩の数は300近くにも及び、その数は藩の随時統廃合により一定しなかったが、幕府の根幹地関東の大名布置状況を見ると、一見ランダムだが仔細に見れば巧妙な統治戦略が見えてくる。
 まず首都である江戸が幕府直轄都市となることは当然であったが、北関東では東北との境界を成す水戸に徳川一族の親藩を置いて幕末まで固定し、仙台の伊達氏をはじめ外様の大大名がひしめき、歴史的にも反中央の気風が強い東北地方に睨みを利かせた。
 また北関東では、栃木の喜連川藩に依然名望のあった足利将軍家縁戚の喜連川氏を事実上の大名格で幕末まで固定し、御所号まで許して敬遠する形で、本来徳川氏が地縁を持たなかった関東地方の支配の正当化に利用した。
 一方、東海・西日本方面への出口となる関東南部の小田原藩には徳川氏最古参の忠実な譜代大久保氏をほぼ固定し、関東防衛の要となる箱根関所の管理運営も委ねていた。また東海・西日本方面へのもう一つの出口とも言える甲府は、当初親藩領とされ、一時柳沢氏が功績から譜代に取り立てられ、入部した時期を経て、最終的に幕府直轄領(天領)として押さえた。
 こうして直轄首都江戸を中心に、関東の北と南の辺境を最も信頼できる身内ないし古参大名で固めるか、天領とする一方、首都圏は広い範囲を直轄領として治め、当初はやはり古参家臣の関東代官伊奈氏(旗本)に世襲管理させ、お家騒動による伊奈氏改易後は関東郡代を設置した。
 その他の周辺諸藩については固定せず、転封による入替を頻繁に行なった。例えば、武蔵国中央に位置し、江戸にも近く、「小江戸」の通称もあった川越を見ると、譜代の酒井氏(雅楽頭家)に始まり、幕末の譜代松井松平氏に至るまで、譜代や親藩を中心に七家が入れ替わりで藩主を務めている。
 これは天領外の首都圏地域にあっても、転封入替を繰り返し、たとえ身内であれ特定大名の土着支配を許さず、政権の中枢が置かれる関東の支配を確保する狙いによるものと考えられる。その後の歴史を見れば、この戦略は的中したと言えるであろう。

前回記事を読む