歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

神道と政治―史的総覧(連載第19回)

六 復古神道への道

垂加神道復古神道
 林羅山が広めた神儒合一論は幕藩体制下の御用宗教となり、体制との密着性を強めたが、それは当然にも幕府支配の正統性を根拠づけることに狙いがあった。これに対する反発は同じ神儒合一論内部から現れた。山崎闇斎の創始した垂加神道がその初例である。
 闇斎は羅山と同様に浪人の子であったが、羅山とは異なり、体制に密着することはせず、在野の儒学者の立場にとどまった。彼の垂加神道も神儒合一論の亜種とはいえ、天照大神に対する信仰を中心に置き、その子孫たる天皇が統治する道こそが神道なりと説いた点で、復古神道につながる要素を包蔵していた。
 しかし、闇斎の生きた17世紀は江戸幕府の体制確立期でもあり、垂加神道が時代の波に乗ることはなく、在野の思想に終わった。しかしその影響は次の18世紀、尊王論という形を取って確実に結実した。闇斎の孫弟子に当たる竹内敬持は京の公家たちに垂加神道を講義したことで幕府に睨まれ、宝暦事件及び明和事件という二つの尊王派弾圧事件に連座して流刑に処せられた。
 江戸幕府全盛期とも言える18世紀に神道と結びつけて尊王論を提唱することは、政治的に危険な企てであった。しかし、国学という文芸論の形でならば幕府の検閲を潜り抜けることが可能であった。国学集大成者の本居宣長が弾圧されることなく生涯を終えた所以である。しかし、彼のキー概念である「神ながらの道=古道」には、神道的要素が内包されていた。
 そうした本居国学の密かな宗教的要素を実際に神道として抽出昇華させたのが、本居に傾倒した平田篤胤である。篤胤は本居の門弟ではなく、その没後に私淑したにすぎないが、本居の「神ながらの道=古道」をベースに、儒教や仏教を排除した純粋の日本神道の復活を提唱したことから、その流派は復古神道と呼ばれる。
 晩年の篤胤は自身の著作を上皇天皇に献上するなど、朝廷への接近を図ったが、幕府の暦制を批判したため、江戸追放、著述禁止という弾圧処分を受けた。しかし、復古神道尊王論神道的に裏づけ、篤胤の死後、尊皇攘夷論に基づく倒幕運動に精神的な影響を及ぼした。
 また、篤胤は膨大な著作の一部を大衆にも向けたことから、彼の思想は識字層の町人や豪農といった庶民階級にも浸透し、幕末倒幕運動の土俗的なベースを形成した。こうして、復古神道は反体制の政治と強く結びついて、幕藩体制を揺さぶることになるのである。