歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第8回)

七 徳川秀忠(1579年‐1632年)

 徳川秀忠は家康の三男であったが、長兄・信康は秀忠が誕生した年に素行不良等の理由で父の命により切腹し、次兄の秀康(越前松平家家祖)は政略から豊臣氏、次いで結城氏の養子に出されたため、三男の秀忠に将軍位が転がり込む幸運に恵まれた。
 彼は武将としては才覚がなく、関ヶ原の戦いでは城攻めに失敗するなど、めぼしい実績に乏しい。当時の大名級武家としては珍しく正式の側室を持たなかったことから俗に恐妻家であったと言い伝えられるなど、性格も温厚で武家的ではなかったようである。 
 しかし、家康から早くに譲位を受け、家康の後見下に第2代将軍として歩み始め、帝王学を授けられた。その消極的な性格も、戦乱に終止符を打ち、発足直後の新体制を守っていく「守成」(家康)の時代を統治するには適合的であったとも言える。
 実際、秀忠は、父・家康との共同統治、家康没後の単独統治、息子・家光に譲位後の大御所統治の各時期を通じて、公家諸法度・武家諸法度などの封建基本法の整備によって朝廷と諸大名を統制し、幕藩体制の基礎を固めた統治者としての実績が認められる。
 ただ、秀忠の時代は体制固めの段階であり、積極的な政策展開は乏しい。その代わり、一族を含む諸大名の改易・転封を繰り返し、幕府の権力基盤の強化に努めている。
 特に大きな改易処分としては、関ヶ原で随一の功績を上げ、広島藩主に封じられていた福島正則の改易がある。広島城を無断改修したことを武家諸法度違反に問うたものであったが、実際は豊臣氏遺臣である福島氏の増長を恐れてのことと考えられる。
 そのほか、父・家康から不興を買っていた異母弟(家康六男)の松平忠輝も改易・配流処分とした。皮肉にも、流刑地諏訪にあって、忠輝は家康の息子たちの中では最も長い91歳まで長生した。
 秀忠は皇室に対しても強い態度で臨んだ。父家康の意向により娘和子の入内を進めていた矢先、典侍四辻与津子(お与津御寮人)が親王を産んだことを不行跡として時の後水尾天皇側近の公家らを処罰したのに続き、大御所時代の1727年(寛永四年)のいわゆる紫衣〔しえ〕事件でも、朝廷に対して厳しい処分を下している。
 この年、後水尾天皇は幕府に無断で複数の高僧に紫衣着用の勅許を出したところ、秀忠はこれを公家諸法度違反に問い、勅許の無効と紫衣の没収を命じた。この処断に反発し、抵抗した高僧らは流刑に処せられた。天皇の権威を貶める幕府の処断に憤激した天皇は、一方的に退位してしまう。しかし、幕府はこの一件を通じて、朝廷に対する法的な優位性を確立した。
 このように、秀忠の治世は朝廷・諸大名らへの法的な処分が目立ち、法と秩序の維持に専念していたことが窺える。まさに「守成」の政策であった。それを可能にした秀忠の権威は、独自のものというより、やはり創業の父からの借りものの要素が強く、そのためにも父・家康をその遺命を越えてことさらに神格化する必要があったのだろう。