歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第9回)

八 徳川頼宣(1602年‐1671年)

 徳川家康の晩年に生まれた御三家家祖三兄弟の中でも、歴史結果的に最も重要なキーパーソンとなるのが、紀伊徳川家家祖・頼宣〔よりのぶ〕である。彼は家康の十男として生まれ、初め水戸に所領を与えられるが、駿府転封を経て、家康没後、兄の第2代将軍秀忠の命により紀伊に転封となり、以後、紀伊徳川家の家祖となる。
 家康晩年の子であるため、隠居していた家康が手元に置き、駿府城で育成された。武芸と人格識見にすぐれ、父親や周囲からも高い評価を得ていたと言われる。一歳上の異母兄で尾張徳川家家祖となる家直が儒学の素養を持つ文人肌の謹厳な人物だったの対し、頼宣は武家的な気風が強かったようである。
 紀伊という遠方地に転封させられたのは、大名統制を強化する兄・秀忠が兄弟に対しても自由に転封させる権力を持つことを知らしめる一種の見せしめの意味があったと見られる。結果として成立した紀伊徳川家は、後世、秀忠系の徳川宗家が断絶した後、時の当主・吉宗が第8代将軍を継承して以来、格式では上位にあった尾張徳川家を押さえて宗家の地位に立ち、幕藩体制の存続保証に大きな寄与をすることになったのだった。
 頼宣は地方領主としても手腕を発揮し、紀州藩の基礎を築き、城下町和歌山を繁栄に導いた。紀伊藩の政策や制度は後に吉宗によって中央の幕府にも持ち込まれる。
 1651年の慶安の変に際しては、首謀者・由比正雪が頼宣の印章を偽造したことから、クーデター謀議への関与を疑われ、江戸に留め置かれる波乱もあった。有能さが禍して謀反の濡れ衣を招いたものと思われるが、頼宣の巧みな弁明が功を奏し、間もなく嫌疑は晴れた。彼は甥の第3代将軍家光よりも長生し、最晩年には徳川氏長老として重きをなした。

九 徳川頼房(1603年‐1661年)

 徳川頼房は家康の十一男かつ末男として生まれ、二人の異母兄とともに駿府城で育成された。頼宣の紀伊転封に伴い、水戸に所領を与えられるが、石高も少なく、継母に当たる父・家康側室の養子とされ、1636年まで徳川姓を許されないなど、兄たちよりも冷遇された。
 家康の没後、江戸へ転居するが、少年時代の頼房は服装や態度が乱れ、一種の不良少年のような生活ぶりだったと伝えられるのも、こうした末男としての冷遇のゆえかもしれない。この頃、一歳年下の甥で、後の第3代将軍家光の知遇を得たと見られる。
 しかし、成人後は態度を改め、所領の水戸藩をたびたび訪れ、藩法令制定や城下町水戸の造成など、水戸徳川家の家祖として水戸藩の基礎を築いた。三男で第2代水戸藩主となる光圀は、彼をモデルとする「水戸黄門」説話の主人公として父よりも有名になった。
 頼房は少年時代を共にしたらしい家光から相談役として重用されたことから、家光の将軍就任後はほぼ江戸定府となる。その結果、頼房に始まる水戸徳川家尾張徳川家紀伊徳川家ほどの家格は持たないものの、水戸藩主は将軍の事実上の補佐役として参勤交代免除・江戸定府が義務づけられたことから、「副将軍」の俗称も生まれるようになった。
 最後の将軍・徳川慶喜紀伊徳川家の流れを汲む一橋家の養子に入る形ながら、「副将軍」格の水戸藩から出たのも、決して偶然ではなく、幕藩体制の最終的な幕引き役にはふさわしかったと言える。