歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第23回)

第六章 「昆支朝」の成立

(2)「昆支朝」成立の経緯

倭国側の事情
 百済王子・昆支が477年頃、倭の畿内王権の王に即位して開いたのが「昆支朝」である。前節で見たように、昆支=応神であるならばあるいは「応神朝」と呼ぶこともできるが、「応神」はあくまでも8世紀になって追贈された諡号にすぎず、同時代的な呼称ではなかった以上、以下では特に必要のない限り「昆支朝」と呼ぶことにする。
 さて、このような「昆支朝」が成立したことについて、百済側の事情は前章で解明を試みたが、一方で倭側ではなぜ昆支のような「外国人」を王に推戴することになったのかという問題が残されている。
 畿内では、第二章・第三章で検討したとおり、加耶系の王権(ニニギ朝)が4世紀前葉以来百数十年間続いていたわけであるが、このように外来の王家を擁する体制が下地としてすでにできていたことがまず大状況として指摘できる。
 そのうえに、畿内王権は5世紀以降、百済の侯国としてその統制を受けるようになっていた。特に同世紀中葉頃からは南朝・宋への偽装遣使のような外交的統制策が導入され、同世紀後葉に至ると、畿内王権は既成事実として百済の属国と化していた。
 このような既成事実化の総仕上げをしたのが、461年以来、百済の総督格で倭に駐在していた昆支王子であり、彼は倭国王に就いた時にはすでに20年近く倭に滞在しており、実質的には渡来人として倭に定住しているに等しい状態にあった。彼は倭の実情を知悉しており、後で見るように倭人女性との間に子もあって、おそらくは在地語もかなり解したであろう。
 そのような中での昆支の倭国王即位は歴史的必然とは言えないまでも、倭側にとっても青天の霹靂ということでは決してなかったのである。
 それにしても、昆支の倭国王即位は通常の王位継承の手続きに従って円満に行われたとは思われない。この点、前記石渡氏は、昆支は加羅加耶)系倭国に「入り婿」に入ったと解している。同氏は、この加羅系王国を金首露を開祖とする金官加耶国との連合王国ととらえたうえ、金首露=崇神天皇とする独自の見解を示し、例の「日十大王」を「日下[くさか]大王」と読む説に同調しつつ、「日下」とはこの入り婿に入った昆支=応神が開祖として創始した百済倭国「大東加羅国」のことであるとする。
 この難解な所論の当否はさておいても、「入り婿」というのは王位継承の方法として異例であり、王家が韓族系であったとすれば、なおのこと入り婿という慣習は見られず、受け入れ難いことと思われ、にわかに首肯できない。
 むしろ、昆支の倭国王即位は端的に非合法手段、すなわち武力クーデターによったものと推定してみたい。

河内閥の形成
 昆支が武力クーデターを成功させるには、それなりの軍事動員力と支持勢力とを必要としたはずであるが、渡来人である彼はそれをどのようにして調達したのか。
 この点で注目されるのは、5世紀後半以後、大阪の河内地方を中心に百済系渡来勢力が急増したと見られることである。その考古学的証拠として、この地方を中心として従来の加耶的特徴を持つ竪穴式石室墳や粘土槨墳とは異なる百済系の木棺直葬墳や横穴式石室墳が増加していく。
 それとも関連するもう一つの重要な変化は、騎馬化の進展である。河内地方の5世紀中葉以降の古墳からは騎馬戦用武具が多数出土するほか、馬牧場の遺跡も多く、後に河内地方に馬飼部が集中する理由を裏書きしている。
 これらの事実は、倭(畿内王権)が百済の侯国となって以来、騎馬風習を持った百済人が在地勢力の少なかった河内地方に集中的に渡来・定住するようになったことを示しており、その背景には百済当局による積極的な移民奨励策があったのではないかと考えられる。
 実際、総督として派遣されてきた昆支自身も、河内地方、特に後の安宿[あすかべ]郡に本拠を置いたと見られる。この地域にある飛鳥戸[あすかべ]神社は昆支の子孫とされる飛鳥戸造[あすかべのみやつこ]の氏神を祀る神社であり、その祭神はまさに百済の昆伎王(昆支)であったと推定されているほか、昆支大王陵である誉田山古墳(応神天皇陵)もこの地に所在しているからである。
 実は、本来の飛鳥―言わば元飛鳥―とは、この河内飛鳥なのであって、後にいわゆる飛鳥時代の帝都として定着する奈良側の飛鳥とは、昆支のクーデター後にこの河内飛鳥を本貫とした昆支にちなんで命名されたにすぎない―言わば新飛鳥―と考えられるのである。この点、『記』で河内飛鳥を「近つ飛鳥」、大和飛鳥を「遠つ飛鳥」と呼ぶのも、河内飛鳥が本来の飛鳥であったことを示唆している。
 このように、河内は5世紀以降、多くの百済系渡来人が集住し、5世紀後葉には百済王弟・昆支を奉じる百済系渡来勢力が形成されるようになっていったことは、後にこの地域随一の豪族となる河内直[かわちのあたい]一族が建てた氏寺を河内寺[こんでら]と名づけたことでもわかる。河内を「コン」と読ませるのは、昆支の「昆」にちなんだ可能性が高く、当時河内と言えば昆支の代名詞であったのではないだろうか。
 ちなみに河内直は百済王族の末裔を称したが、これはおそらく仮冒であり、昆支を支持した百済系渡来勢力の中から台頭した豪族であろう。
 さて、河内地方にはこうした百済系渡来勢力に加えて、例の天孫ニギハヤヒ派、すなわち後に物部氏となる加耶系渡来勢力も本貫を置いていた。かれらの足跡は河内でも最も古い4世紀後半頃からの古墳群である柏原市の玉手山古墳群に見られる。
 この勢力は百済系渡来勢力よりも早く、4世紀前葉か、それ以前に渡来していたが、神武へのニギハヤヒの服属説話にあったように、同系のニニギ朝に一応臣従しながらも独自の勢力を河内地方で保持し、加耶系の土器職人集団を配下に置いて経済的基盤としつつ、新来の百済系勢力とも連合するようになり、自らも百済化していったものと見られる。
 こうして、河内地方には百済加耶系の連合体的な軍事‐経済集団―河内閥―が形成されるようになり、これが5世紀後葉には昆支という実力者を奉じて自立化し始めるのである。

河内閥のクーデター
 昆支のクーデターは、百済本国の背後的関与と前回見た河内閥の支持の下に断行されたものと考えられる。ただ、クーデター以前に河内閥が独自の王国を形成していたことを示す大古墳群のような証拠はなく、昆支のクーデターはあくまでも既存のニニギ朝内部から勃発した政変であっただろう。
 従来、5世紀を境に畿内における王墓造営地が三輪山周辺から河内へ移動していき、やがて誉田山古墳や大仙陵古墳宮内庁治定仁徳天皇陵)のような巨大墳墓が出現することをもって「三輪王朝」から「河内王朝」への交替を説く学説も提起されたが、これに対しては、誉田山古墳や大仙陵古墳が従来どおりの竪穴式石室を保っていることから、墓制の連続性が認められ、王朝交替は考え難いとの批判があり、むしろ王朝交替を否定するのが通説となっている。
 たしかに外部からの征服・併合による王朝交替を想定することは困難であるが、昆支を中心とする河内閥が政権を奪取したからには、河内の役割が重要性を増すことは必然であった。おそらく王墓造営地のみならず、王宮も河内かその周辺に造営されたと思われる。この点、『書紀』には応神天皇の宮として奈良県側(橿原市)の明宮[あきらのみや]と難波の大隅宮[おおすみのみや]の二ヶ所が記されていることは示唆的である。
 このことは同時に、クーデターまで加耶系ニニギ朝が拠点としていた奈良県側の地域も決して打ち捨てられたわけではなかったことを示してもいるのである。そして既存王朝内部からの転覆という形の政変で成立した体制であれば、墳墓築造方式も当初は旧体制のものが継承されたと考えられるのである。

専制王権への転換
 こうして昆支のクーデターが既存王朝内部から生じた政変であったとしても、それは王朝交替に匹敵する変化をもたらし、列島全体の歴史を大きく転換する契機ともなった。であればこそ、昆支即位以降の畿内王権を特に「昆支朝」と呼ぶことに意義があるのである。
 まず血統的な面での変化として、従来の加耶系王家から百済系王家へ転換された。旧王家の運命については後で詳しく検証するが、結論として、かれらは(少なくともいったんは)王権から暴力的に排除されたと見られる。
 次に王権の構造的な変化として、旧加耶系王権が在地系の氏族連合体の上に成り立つ脆弱な構造を持っていたのに対して、昆支朝、特に初代昆支の時代には王への権力集中が基本となった。昆支の権力基盤は、前述したような百済系渡来人勢力を中心とする河内閥にあったから、同質性が強く、王権は従来のように在地豪族らに制約されるようなこともなかったのである。
 そうした権力の大きさを背景に、昆支は「大王」を名乗ったが、単なる「王」でなく「大王」を称したのは、彼がそれだけ超越的な王権の確立を目指していたことを示している。
 この点、昆支の故国・百済は元来高句麗と同系で、高句麗から分離し、馬韓領内へ南下してきた扶余族の王家を土着豪族(いわゆる百済八大姓)が担ぐ、ちょうど旧ニニギ朝と同型の制約された脆弱な王権を特徴としており、こうした構造は昆支大王と同時代の東城王代に王権強化が図られるまで続いていた。昆支大王はこうした故国の王権構造の弱さに照らしても、倭ではより専制的な王権の確立を目指したであろうことは想像に難くない。
 彼はそうした王権の大きさを後世まで視覚的表象としても残すべく、故国・百済でも倭でも前例を見ず、自身の息子に抜かれるまでは最大の墳丘長(430メートル)を誇った巨大墳墓を生前寿墓として築造させた。これが今日まで威容を保つ誉田山古墳である。
 こうした専制君主・昆支大王の右腕となったのは、河内閥の百済系豪族と本国から呼び寄せた百済官人であった。特に475年の漢城陥落後は多数の亡命百済人が渡来してきていたと考えられるので、人材には事欠かなかったはずである。
 こうした百済人勢力は同時に騎馬勢力でもあり、クーデターを成功させた後は昆支朝の軍部を形成するようになったと推定される。もっとも彼の後継者の時代になると、物部氏が王権の軍事氏族として台頭してくるが、昆支大王時代の物部氏の前身勢力は河内閥の一角を占める、どちらかと言えば経済集団であったように見える。
 一方、旧王家を担いでいた在地豪族らはと言えば、かれらはもともと外来の王家に絶対的な忠誠を誓っていたわけではなかったから、おそらく新体制に早期に帰順したものと思われるが、政権中枢からは外されたであろう。この勢力の後退は、5世紀後葉頃から奈良盆地で大型墳墓の造営全般が停止してしまうことにも表れている。あるいは厚葬禁止令が出されたかもしれない。
 かくして、昆支大王は強力な王権をもとに、軍事から宗教にも及ぶ大規模な改革に取り組んでいくことになる。