歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第22回)

第六章 「昆支朝」の成立

応神天皇八幡神平安時代に入っても「皇大神」「我が朝の大祖」などとして皇室から崇拝されており、『日本書紀』の叙述上も応神紀からは徐々に史実性が増すと考えられている。この応神天皇とは何者であり、どんな王朝の「大祖」であったのか。

(1)「昆支=応神」仮説

「昆支大王」の実在
 前章で「倭の五王」の分析から武=百済王子・昆支との結論を導いたが、倭国王としての昆支の実在を示す傍証として、和歌山県隅田八幡[すだはちまん]神社所蔵の国宝・人物画像鏡銘文にある「癸未年八月日十大王年」という文言が注目される。
 この画像鏡の年代と銘文の意味については諸説あるが、年代については、この鏡は中国の南朝・宋時代に製作された尚方作人物鏡のオマージュと見られており、日本では6世紀前葉から中葉にかけてのいくつかの古墳から尚方作人物鏡が出土することに照らして、6世紀前半の癸未年=503年が妥当と考えられる。
 銘文の詳しい内容は次章で改めて取り上げるが、大要として「癸未年八月日十大王年」に、「斯麻」が「男弟王」の長寿を願ってこの鏡を作らせたというものである。
 鏡の年代を6世紀前半と見た場合、これは「日十大王」の治世中、503年に斯麻(=百済第25代武寧王)が倭の「男弟王」に献呈したものと解する説が有力である。
 この場合、「日十大王」とは503年当時に在位した倭の大王を指しているわけであるが、この「日十」の読み方にも諸説あり、「日十」という日付と解するのがむしろ通説のようである。しかし、そう読むと、「大王年」の部分が宙に浮いてしまうし、製作年を示すのに日付まで入れるのは、この種の儀礼的製品ではかえって細かすぎて不自然な感がある。
 私見はやや人を食ったような解釈になるが、「日十」とは「昆支」の各漢字のかんむり部分だけを抜き出した略字体と解する。実は、銘文の中では他にも「銅」を「同」、「鏡」を「竟」と偏を省略した略字が使われているので、略字体と見ることは必ずしも奇をてらった解釈ではない。
 従って、「日十大王」=「昆支大王」であって、倭国王となった昆支は「昆支大王」と呼ばれていたことが示唆されているのである。
 それでは、なぜ武寧王はわざわざ昆支大王の頭越しに大王より下位の「男弟王」なる人物に鏡を贈ったのかという問題は、贈り主である武寧王と昆支大王の関係、また相手方の「男弟王」の素性とこれら三者の関係を解明しなければ解けない問いであるので、次章に回すことにしたい。

画期的な石渡説
 こうして、昆支大王の実在が考古学的にも証明されそうであるが、さらに進んでこの倭国王としての昆支こそ応神天皇であるとの説を提唱したのが、在野古代史家(元都立高校教諭)石渡[いしわたり]信一郎氏であった。その議論は、『記紀』をはじめとする内外の史書の解読と考古学的証拠を照合した緻密かつ大胆なもので、その詳細は主著『応神陵の被葬者はだれか』(三一書房)にまとめられている。
 従来から、応神天皇を新王朝の開祖と見る説は少なくなかったが、それらは応神が土着の倭人であることを当然視したものであり、応神が渡来人であることを明確に主張するばかりか、その素性として、皇室自身が「ゆかり」をほのめかす百済王家の血統と結びつけて解明しようとする学説は見当たらなかった。
 そうした点で石渡説は画期的であり、現皇室も元をたどっていけば応神に行き着くことからして、応神が明確に百済人であったと結論づける同説は政治的にも大きな波紋を起こす微妙さを孕んでいる。
 私見もこの石渡説の影響下にあり、本連載自体、石渡氏の著作との出会いなくしては生まれなかったと言うべきほどのものである。ただ、最終的に石渡氏と共有しているのは、「武=昆支=応神」という根幹的な定式の部分であって、昆支=応神朝成立の経緯やその後の王朝の展開といった部分では石渡氏とは異なる考えに赴くこととなった。
 そうした違いについては該当箇所で言及することとして、ここでは根幹的な昆支=応神説のもう一つの重要なポイントとなる言語学的根拠についてまとめてみよう。

言語学的検証
 応神天皇の諱は「誉田別」[ほむたわけ]といい、和風諡号も「誉田天皇」(ほむたのすめらみこと)であるが、この「ほむた」の由来について、『書紀』では応神の腕に生まれつきホムタ(鞆:弓を射るときに左手首に当てる丸型の革製道具)に似た筋肉が付いていたことによるなどと、それこそ鞆のように取ってつけたような説明を与えているが、これは『書紀』が問題含みの人名や地名の由来説明としてよく見せる一種の語呂合わせにすぎない。
 一方、宮内庁治定応神天皇陵である誉田御廟山古墳の「誉田」は「こんだ」と読むことからして、「誉田」はかつて「コンダ」とも読まれていたことが知られるのである。
 この「コンダ」が昆支[コンヂ]の転訛であることは比較的容易に推測できるであろうが、これはまた「ホムタ」とも転訛し得るのである。なぜなら、語頭のkとhとは音声学的に入れ替わりやすいからである(石渡氏も挙げている例として、『書紀』神代紀に岐神[ふなとのかみ]を元は来名戸の祖神[くなとのさえのかみ]といったとある)。
 ところで、「ほむたわけ」の「わけ」(=別)は、他にも初期天皇の皇子名によく見られる語尾で、その意味について、景行紀では景行天皇の70人余りの皇子が地方に封ぜられて各国に赴いた別王[わけのみこ]の子孫のこととされているが、この説明は応神にはあてはまらないし、やはり語呂合わせの感が強い。
 むしろ「ワケ」とは軍事指導者の称号で、姓の一種とする説が有力である。この点、昆支は中国南朝から「征虜将軍」の称号を授与された武人でもあったから、百済の総督格として赴任していた倭でも軍事指導者「ワケ」の姓を与えられていたと見ても不自然ではなかろう。
 そうすると、「誉田別」とは「昆支将軍」といった意味合いになってくるので、誉田別=応神天皇とはまさに倭国王となった武人・昆支の姿にほかならないである。
 「日十大王」の文字が刻まれたかの人物画像鏡が八幡神応神天皇を祀る隅田八幡神社に所蔵されているという事実も、日十大王=昆支大王と応神天皇の同一性を暗示しているのではなかろうか。