歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第1回)

プロローグ

 「天皇の誕生」というテーマは、正史・通説の立場からすれば、さしあたりは『古事記』(以下、『記』)及び『日本書紀』(以下、『書紀』)を参照のこと、と言うだけで済んでしまう。果たしてそれによると━
 天皇の祖は、皇祖神・天照大神アマテラスオオミカミ:以下、アマテラスと略す]の神勅によって高天原より日向に降臨した孫の瓊瓊杵尊ニニギノミコト:以下、ニニギと略す]であり、その三世孫になる彦火火出見[ヒコホホデミ]が大和に東遷し、在地勢力を征服して初代神武天皇として即位する。その後、累代にわたってすべてこの神武の子孫が連綿として皇位を継いでいる。こういうことになる。
 しかし、第26代継体天皇は第25代武烈天皇の近親者ではなく、第15代応神天皇の五世孫とされ、『記』及び『書紀』(以下、総称して『記紀』)の立場によっても継体朝は実質上新王朝と言ってよいのであるが―私見は本文で示すように異なる―、総体として神代から切れ目なく日本独自の土着的な王朝が続いているというのが、『記紀』の筋書きとなっている。
 今日ではさすがにこうした筋書きを鵜呑みにする学説は皆無であるが、戦前は「天皇ファシズム」の核心思想として絶対の権威を持った皇国史観の史料的根拠として大いに利用されたところである。
 とはいえ、3世紀後半頃から4世紀初頭の早い時期から、後に天皇王朝となるヤマト王権がすでに成立しており、現皇室に至るまで連綿として実質的に同一の王朝が継続しているといった考え方の大枠は今日でも保持されている。
 特に近時は、『書紀』で第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命[ヤマトトトビモモソヒメノミコト]の墓と明記される箸墓(はしはか)を中国史書『魏志』に現れる有名な邪馬台国女王・卑弥呼の墳墓と結論先取り的に推定した上で、箸墓の築造年代が最新の放射性炭素年代測定の結果、3世紀半ばと結論づけられたことから、箸墓が「卑弥呼陵」である可能性が高まり、従って邪馬台国畿内説が裏付けられたとみなし、邪馬台国ヤマト王権の前身勢力として天皇王朝前史に組み入れようとする見解が急速に有力化してきた。
 このような講壇考古学・史学の動向は、戦前の神話的な皇国史観に対して、科学的な考古学の衣をまとった新皇国史観と呼ぶべき実質を秘めており、本文で改めて批判的に検証していく。
 ここではさしあたり、古墳の年代測定と歴史的な「天皇の誕生」プロセスとは分離して考察されるべきではないかということを提起しておきたい。古墳の年代測定は科学技術を駆使して客観的に行われるべきでことであるが、「天皇の誕生」プロセスは記紀』の批判的読解(クリティカル・リーディング)を通じて探求されるべきことである。
 本連載はそうした試みの一つであるが、その結果として、正史・通説とは大いに異なるヘテロドクスな帰結に到達することとなった。
 このことは孤立を招くかもしれないが、本来言論の自由とは孤立を恐れず言挙げすることを意味したはずである。ただ、このような言挙げという所作は日本社会では好まれないことの一つであろう。
 しかし、『書紀』によると、ニニギが降臨を命ぜられた葦原中国(あしはらのなかつくに:日本列島)は騒がしく、「草木がよく物を言う」と評されている。ここで「草木」とは民衆を表象しているとすれば、いにしえの日本民衆はよく言挙げしていたようである。それを言挙げしづらくさせてしまったのは、まさに「天皇の誕生」とも全く無関係ではなかろう。
 本連載は、日本におけるそうした“歴史のタブー”に独力で挑もうとした知的格闘の記録と言ってよいかもしれない。格闘の過程ではいささか脱線もあるかもしれないが、その点ご容赦いただければ幸いである。

〔注〕
『記』と『書紀』では人名や神名の表記・読みにも違いが見られるが、本連載では特に断りのない限り、『書紀』での表記・読みに従う。