第一章 三人の「神冠天皇」
皇大神としての八幡神
応神天皇が新王朝開祖であるらしいことは、宗教の面からも確認することができる。まさに応神天皇を祭神として祀っている八幡宮の存在である。宇佐八幡宮(宇佐神宮)を総本社とする八幡神社は日本人に最もなじみ深い神社の一つで、その総数は稲荷神社に次いで全国二位という。
この応神天皇の神格化である八幡神が朝廷からも本格的に崇敬されるようになったのは遅くとも8世紀中頃と見られているが、9世紀中頃に宇佐八幡宮を勧請した京都の石清水[いわしみず]八幡宮は朝廷からも崇敬され、八幡宮は「石清水の皇大神」「我が朝の大祖」などと称され、平安朝からも応神天皇は王朝開祖とみなされていたことが窺える(『日本三代実録』)。
ちなみに、皇族からの臣籍降下によって創出された武家の源氏が八幡神を氏神としたのも、一族の皇室出自を誇るためであったと考えられる。
八幡信仰の由来
ところで、最古の八幡宮と見られる誉田山[こんだやま]古墳(宮内庁治定応神天皇陵)に付設された誉田八幡宮は、社伝によると、第29代欽明天皇の命で創建されたとあり、総本社の宇佐八幡宮も欽明時代末期に八幡神が童子の姿で現れたことが由来とされることからして、八幡神信仰の原型となる応神崇拝は、欽明天皇自身が一定の政策的意図を持って創始したものと思われる。そうした歴史的経緯については、いずれ該当箇所で検証していく。
一方、八幡信仰でもう一つ無視できない特徴として、八幡神の渡来神的性格がある。『八幡宇佐宮御託宣集』(14世紀成立)によると、童子の姿で顕現した八幡神は「辛国の城に始めて八流の幡を天降して、吾は日本の神となれり」と宣したとある。
ここで「辛国」[からくに]とは「韓国」の別表記であるから、この託宣は八幡神が元来朝鮮半島からの渡来神であったことを明示しているものとして注目される。とりわけ「八流の幡」という表現には、政治的にも重大なある象徴的意味が込められていると考えられるのだが、これについても後で改めて解明することにしたい。
「神冠皇后」の存在
『記紀』では、「皇后」でありながら実質上天皇と同格の扱いを受けた上に、漢風諡号に「神」の名を冠せられた人がいる。それが、応神天皇の母とされる神功皇后である。
彼女は三韓征伐伝承のヒロインとして、古代コロニアニズムの中心的存在であり、かつ近代皇国史観の支柱でもあったことから、戦後は架空人物として否定されるようになった。
しかし、皇国史観とは分離して、彼女の実像を応神天皇との絡みで再検証することは「天皇の誕生」プロセスを究明するうえで重要と思われる。
ちなみに、『書紀』は大胆にも注記で神功皇后を邪馬台国女王卑弥呼に比定しようとしている。しかし、もし神功皇后=卑弥呼ならば、応神天皇は卑弥呼の息子であったことになるが、これは出来すぎた話で、「年すでに長大にして、夫婿なし」という『魏志』の記述からも、シャーマン女性として生涯独身だったと見られる卑弥呼像と合わない。
一方、神功皇后の和風諡号「気長足姫尊」[オキナガタラシヒメノミコト]は、彼女が豪族・気長(息長[おきなが])氏の息女であったことを示している。息長氏は近江を本貫とし、越前方面まで勢力圏に収めた古い豪族であり、その墓域と見られる古墳群が米原市西部に残されているが、規模は小さい。
しかし、そのわりに息長氏は大王妃を輩出する皇親として高い家格を持ち、特に第40代天武天皇が氏族改革の目玉として定めた「八色の姓」でも、息長氏は最高位の「真人」[まひと]を授姓されていることが注目される。
これは天武自身、祖母(天武の曾祖母)が息長氏出身で、自身も「息長足日広額天皇」[おきながたらしひひろぬかのすめらみこと]の和風諡号を持つ第34代舒明天皇の息子であったことが関係しているであろう。
実際、天武の実兄・第38代天智天皇以来、今日に至るまで、この「息長系」の天皇が続いているのであり、息長氏の重要性は再認識されるべきであろう。それとの関連で、息長氏の代名詞的存在である気長(息長)足姫尊=神功皇后の「実在性」を改めて探求する必要があると思われる。
渡来神としての神功
宇佐八幡宮には応神天皇とその母とされる神功皇后も合祀されているが、宇佐からもさほど遠くない香春[かわら]神社にも辛国息長大姫大目命[カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト]として祀られている。この神社は古来新羅神を祀るところでもあるから、ここでは神功皇后は新羅神の性格を与えられていることになる。
このように神格化された神功皇后が新羅神とされるのは、神功皇后の出自に関わっている。『記』の系譜(『書紀』では省かれている)によると、彼女は新羅王子・天之日矛[アメノヒボコ]の直系子孫とされる。
『書紀』によると、アメノヒボコは第11代垂仁天皇の治世に渡来してきて、初め播磨国に滞在したが、「諸国を巡り歩いて、自分の好きなところに住みたい」との願いを天皇が許したので、近江国から若狭国を経て、但馬国に定住し、そこで地元の娘を娶って但馬諸助[タジマモロスク]を生んだ。この諸助の五世孫が神功皇后の母・葛城高顙媛[カズラキノタカヌカヒメ]で、彼女と気長宿禰王[オキナガノスクネノミコ]との間に生まれたのが気長足姫尊=神功皇后とされるのである。
神功皇后の母方の伝承上の祖・アメノヒボコが「新羅王子」とされることの意味については、後に詳しく分析するが、いずれにせよ、応神=八幡神とともに神功=辛国息長大姫も渡来神の性格を持っているという事実は極めて示唆的である。
ところで、宇佐八幡宮には応神天皇と神功皇后が母子で祀られていることになるが、母子だけを祀るというのはかなり異例であり、むしろ両者を「夫婦」と見たほうが自然のようにも思われる。このことは、宇佐八幡宮をはじめ、大きな八幡宮には応神の父とされる仲哀天皇が祀られていないという事実からも裏付けられる。
この応神天皇と神功皇后の続柄という問題は、後でもう一度別の形で取り上げることにして、ここではさしあたりそういう問題意識を示唆するにとどめておく。
『記紀』で神聖視された三人の「神冠天皇」とは、実は神武と応神=崇神の二人であるが、この両者は各々時間的に先後する別王朝の「初代」であると推定される。そして、後者の応神天皇が皇室の実質的開祖であると見られる。しかも、彼はその母(実は妻?)とされる神功皇后ともども渡来神としての性格で祀られている。
となると、応神に始まる王朝よりも古い王朝の開祖と見られる「神武天皇」とはいったい何者なのか、またその古王朝とはいかなる勢力であったのか。