歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第4回)

第二章 「神武東征」の新解釈

南九州の日向から、軍団を率いて畿内へ侵入し、大和朝廷を建てたとされる「天神」の子・初代神武天皇の東征は単なる神話なのか、それともそこには何らかの史実が投影されているのであろうか。

(1)「神武東征」の出発地

宮崎日向説
 天孫・ニニギの曾孫・彦火火出見(後の神武天皇)に率いられた東征軍団(以下、「神武軍団」と呼ぶ)の出発地について、『記紀』は一致して南九州(宮崎)の日向とする。
 そもそもニニギが降臨したとされる場所が『書紀』では「日向の襲[そ]の高千穂の峯」とされており、これが今日でも宮崎の高千穂として名所旧跡となっているところである。
 そして、ニニギとその子のヒコホホデミノミコト、孫のヒコナギサウガヤフキアエズノミコトの三代の陵墓(いわゆる神代三陵)はいずれも今日の鹿児島県内にあり、宮内庁が治定する「天皇陵」に準じて管理されている。
 このように鹿児島県まで飛んでいく理由は後に解明するとしても、宮崎日向説は『書紀』の叙述の内部で矛盾を来たしているのではないかという疑問がある。
 景行紀17年3月条に、第11代景行天皇熊襲討伐の後、子湯県[こゆのあがた](宮崎県児湯郡)の丹裳小野[にものおの]というところに遊んだ際、東方を望んで「この国は真直ぐに日の出る方に向いているなあ」と感嘆したことが「日向国」[ひむかのくに]と名づけられた由来だとある。
 景行天皇の九州遠征の途上に「日向国」が命名されたというならば、景行よりもはるか前の神武の代で当然のように宮崎の日向が出てくるのは論理的におかしいわけである。
 また、景行天皇が王朝開祖・神武天皇の故地を訪れていながら、重要な先祖の神武天皇を思い起こさずに、未知の処女地であるかのような感想を漏らすというのも不自然な感じがする。
 さらに言えば、記念すべき神武天皇の生地に、蛮族として描かれる熊襲が割拠しているというのも理解に苦しむところではある。

筑紫日向説
 天孫降臨の地について、『記』では「竺紫の日向の高千穂の久士布留多気[くじふるだけ]」とより明確に記されている。実は、『書紀』でも、神代編第九段別伝第一書では「筑紫の日向の高千穂のくし(木偏に串)触峯」と同様の記述が引用されている。
 注目すべきは、「竺紫(筑紫)の日向」という一句。この「筑紫」を狭義に取れば、「日向」は北九州の筑紫にもあったことになる。今日、北九州に「日向」という正式の地名は残っていないようだが、福岡市と糸島郡の間に位置する高祖山連峰の中に「日向山」、「日向峠」があり、また「日向川」が流れている。これらは「ひなた」と読ませるのであるが、「ひむか」と同義である。
 ちなみに、『書紀』がニニギの山陵の地として示すのも「筑紫の日向の可愛[え]」で、ここでは「筑紫の日向」が登場する。すると、ニニギは南九州ではなく、北九州の「日向」に降臨し、ここで没したと考えるほうが合理的のようである。
 ところで、ニニギの山陵として記される「可愛」は文字どおり「カエ」と読めば、、高祖山連峰にも近い福岡県の糸島半島にあり、『万葉集』にも「草枕旅を苦しみ恋居れば可也の山辺にさ雄鹿鳴くも」と歌われた名峰・可也山[かやさん]と通ずるところがある。
 そして、この可也山頂にはまさに神武天皇を祀る可也神社も所在しているという事実も、偶然とは思われない。
 こうしてみると、ニニギに始まるいわゆる天孫族の活動舞台とその子孫とされる神武の東征出発地も「筑紫の日向」と見たほうが合理的なように思われるのである。これは近年一部で有力化している説でもある。

「宮崎日向説」の背景事情
 それではなぜ、とりわけ『書紀』は天孫族の活動舞台と神武軍団の出発地を南九州に設定しようとしたのであろうか。
 これは、南九州の先住民族と目される隼人勢力の動向と関連している。『書紀』の編纂が鋭意進められていたと見られる700年、当時朝廷が南西諸島及び大隅半島薩摩半島など九州最南部の踏査に送り込んでいた覓国使[べっこくし]が隼人勢力に威嚇されるという事件があり、朝廷は懲罰のため軍を派遣して、この地域の征服を本格的に開始、702年に唱更国(後の薩摩国)、713年には大隅国を設置するなど、隼人勢力の征服が進展した。
 それでも隼人勢力は容易にまつろわず、たびたび反乱を起こすが、最終的に『書紀』が完成した720年の大反乱が翌年、万葉歌人でもあった大伴旅人率いる朝廷軍に鎮圧されて以降、反乱はほぼ終息する。
 このように、『書紀』の編纂は奈良朝の隼人征服作戦と並行するようにして行われていた。隼人征服は究極的に軍事力によったが、隼人服属を正当化するためには理論武装も必要であった。それが『記紀』に共通する隼人の天孫出自説である。
 それによると、隼人の祖はニニギの子であるホノスセリノミコト(火照命[ホデリノミコト])だというのである。この神は同母弟・ヒコホホデミ火遠理命[ホオリノミコト])とともに、海幸彦(兄)・山幸彦(弟)の物語の主人公としてよく知られているところである。
 有名な神話であるから内容は省略するが、この物語の政治的なポイントは、兄弟の対立の中で、最終的に兄(海幸彦)が弟(山幸彦)に服属するということである。つまり、隼人の祖とされる兄が弟に敗北するわけである。
 この神話の政治的な仕掛けの巧妙さは、まず隼人を天孫族の系譜の中に取り込んでおいて「隼人と皇室は同祖」という懐柔的な定式を立てた上で、先住の海洋民族(=隼人勢力)を暗示する兄=海幸彦が後住の農耕民族(=大和朝廷)を暗示する弟=山幸彦に敗北・服従するという結果によって、隼人の朝廷に対する服属を正当化しようという論法になっているところにある。
 こうした仕掛けを作動させるには、天孫族の活動舞台は隼人勢力の地盤である南九州であったほうが都合がよく、その結果、天孫族の一員である神武の東征出発地もまた「南九州の日向」ということになったのであろう。