歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第2回)

第一章 三人の「神冠天皇

8世紀に、漢学者・漢詩人の淡海三船[おうみのみふね]が撰じた歴代天皇の漢風諡号の中で、「神」を冠せられたのは初代神武・第10代崇神、第15代応神の三天皇だけである。このことは、8世紀の時点でも、三天皇が特別に神聖視されていたことの証しである。それはいったいなぜか。この問いが導きの糸となる。

(1)二人の「初代天皇

ハツクニシラス
 普通、「初代天皇」と言えば「神武天皇」が思い浮かぶであろう。この「初代天皇」のことを、『書紀』は国土の最初の支配者という意味で「始馭天下之天皇」[ハツクニシラススメラミコト]と呼ぶ。
 ところが、『書紀』にはもう一人「初代天皇」が登場する。それが第10代崇神天皇である。そうすると、神武と崇神は同一人物ではないかとの推測も成り立つように思え、事実そういう説もあるが、崇神のほうは「御肇国天皇」と書いてやはり「ハツクニシラススメラミコト」と読ませている。こちらは、「初めて国家体制を整備し、統治した天皇」というぐらいの意味で、神武とはニュアンスに違いがあり、神武のほうが始祖性の強い「初代」なのである。
 両者はこうした称号の表記の違いのみならず、性格にも違いが見られる。すなわち━
 神武は軍団を率いた開拓者的な英雄として描かれており、神武自身、直接に天神の子とされ、神武紀は全体として前の神代の章とも連続性を保った神話的な体裁の強い章となっている。
 これに対して、崇神は神秘的で、霊能者風の性格があるが、崇神紀は神話的というよりは説話的で、『書紀』の叙述の中では一応歴史物語的な体裁が整い出すスタート地点に当たっている。

別の王統?
 それでは、いったいなぜ『書紀』は二人の「初代天皇」などという紛らわしい叙述をしたのであろうか。この問いの答えはとても簡単で、要するに神武と崇神とは元来、別の王統の「初代」なのだと仮定してみればよい。
 そういう目で『書紀』の構成をとらえ返してみると、崇神は神武の子とされる第2代綏靖[すいぜい]天皇から第9代開化天皇までの、事績の叙述が何もなく、単に天皇の名と系譜だけが記されたいわゆる「欠史八代」の後に登場している。
 神話的な英雄物語的描写が過剰なまでに示される神武と、ほとんどリストだけの「欠史八代」とを合わせた初期九代の「天皇」たちは、崇神以降の王統とは本来別の王統に属するものを、『記紀』の編纂者が作為的に一本化したか(もしくは彼らが参照した原史料がすでにそういう体裁になっていた)ものと想定することができるのである。
 ちなみに、この点では『記』のほうが徹底していて、『記』では神武にはハツクニシラスの称号を与えておらず、崇神だけに「知初国之御真木天皇」[初国知らししみまきのすめらみこと]の称号を与えているのである。これは元来、『書紀』にもまして天皇賛美の書である『記』のほうが、より強固に皇統の一貫性を打ち出さんとしているものと考えられる。

(2)崇神天皇応神天皇

三人目(?)の「初代天皇
 さて、神武と崇神の関係についてはひとまずおいて、ここで実は三人目の「初代天皇」がいるのではないかという問題を考えてみよう。
 それは第15代応神天皇である。『書紀』は、この天皇については神武、崇神天皇のようにハツクニシラスの称号を直接には与えていないけれども、応神はその父とされる第14代仲哀天皇神罰に触れて死去した後、皇后で応神の母とされる神功皇后が数十年(『書紀』では69年間)も摂政として統治した後に即位するという筋書きとなっている。
 系譜上の形式的連続性は保たれているものの、皇位が長く空いた後に即位していることや、「聖帝」というような賛辞からすると、実質的に応神天皇も一種の「初代天皇」として扱われているに等しい。そこで、神武、崇神に続く三人目の「初代天皇」の登場を想定したくなるところである。
 そもそも、『記紀』の原史料となった『帝紀』『旧辞』(いずれも散逸)が成立した段階では、皇統譜応神天皇から始まるものであったと考えられており、崇神から仲哀までの五代は7世紀前半頃に追加・架上されたと見られているのである(直木孝次郎氏)。

崇神と応神の類似性
 実際のところ、応神天皇崇神天皇と奇妙にも類似性が認められるのだ。以下、列挙してみよう。
 第一に、いずれも新王朝樹立者としての性格が強いこと。
 応神は、すでに述べたように、皇位が長く空いた後に即位したことになっているが、崇神もいわゆる「欠史八代」の後に登場している。
 それと関連して、いずれも即位後の初期に、応神の場合は漁民の騒乱、崇神の場合は百姓の反逆が起きている。シチュエーションは異なるが、いずれも新王朝に反発する勢力の反乱が示唆されている。
 第二に、こうした新王朝開祖という位置づけに対応して、神聖なる大帝としての人物描写がなされていること。
 すなわち、応神は幼少から聡明で、物事を深く遠くまで見通し、立居振舞に聖帝のきざしありと描写されているが、崇神も善悪識別の力にすぐれ、早くから大きなはかりごとを好み、常に帝王としての大業を治めようとする心があった云々と評されているほか、垂仁紀には、崇神の子とされる第11代垂仁天皇の言葉を借りる形で「先帝・崇神天皇は、賢くて聖であり、聡明闊達」とほとんど応神そのものの人物評がなされている。
 第三に、具体的な事績としても、各地の平定、艦船の建造、池の造営(水利事業)などの点で類似点が多いこと。
 第四に、両天皇の即位後、海外(主に朝鮮半島)からの集団的渡来が記録されていること。
 もちろん、『書紀』の構成上、崇神と応神は別人の体裁をとっているから、細部に違いを持たせていることは事実であるが、大筋として見ると、重なってくるところが多い。
 大胆に推論すると、崇神天皇応神天皇という等式が想定できる。つまり、『記紀』は本来一人の人物を崇神と応神の二人に分割する作為を加えた可能性があるのである。正確に言えば、より実在性の高い応神天皇の分身として「崇神天皇」を造作・架上したのである。
 このように実在の天皇―「天皇」称号の使用は早くとも7世紀半ば頃から始まったもので、それ以前は「大王[オオキミ]」を称した―を複数人に分割することによって造作された架空の天皇のことを、本連載では「分身像」と呼ぶことにする。
 『記紀』は、こうした分身像を応神の他にも二人の大王について造作していると考えられるのであるが、いずれ該当箇所で改めて検証していくことにしたい。