歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第10回)

第三章 4世紀の倭

(2)加耶人の世紀

加耶人の集団渡来
 前回見た邪馬台国の解体は、朝鮮半島からの相当な規模の渡来の波が発生するチャンスとなった。その渡来の中心となったと考えられるのが、再三述べてきた加耶地方からの移民集団である。
 先述したように、小邦分立状態であったこの地方は構造的に流民を出しやすかったのだが、海外移住先として最も手っ取り早いのが対岸とも言える日本列島であった。
 4世紀代には、これらの加耶系渡来集団による複数の王権樹立が西日本を中心に同時並行的に進んだものと見られる。「神武東征」の結果として形成された畿内王権はその一つであるが、4世紀代には、他にも吉備、丹波(丹後)、日向(宮崎)と、少なくとも四つの有力な加耶系王権が樹立され、並立したものと推定されるのである。
 一方、まとまった王権を樹立するには至らなかったか、小規模な王権を形成しつつ加耶系渡来人が集住したと見られる地域が出雲西部、北陸など日本海沿岸部や瀬戸内海沿岸部にも見られる。
 こうした加耶系王権または地域のうち最も優勢化したのが畿内王権であることは間違いない。それだけにこの王権については論ずべき点が多いので、改めて次節で述べることとし、以下ではそれ以外の主要な加耶系王権または地域を概観してみよう。

吉備加耶系王権
 前章で述べたように、吉備は糸島半島へ渡来してきた金官加耶系集団の第二世代による最初の東征の到達点であったと考えられるところである。
 ここに、加耶系初期古墳の特徴である木槨を持つ楯築古墳が出現したことはすでに述べたが、これ以降、この地域では今日の岡山県総社市を中心に古墳時代の全期間にわたって膨大な数の古墳が築造され、全国でも畿内に継ぐ古墳群を形成している。特に、最大規模の造山[つくりやま]古墳(墳丘長350メートル)、作山[つくりやま]古墳(同286メートル)のような畿内級の大古墳の存在からして、5世紀以降には相当に強力な王権に発展したものと見られる。
 また、後に備中国一宮となる吉備津神社神職は賀夜[かや]国造の子孫であったが、この賀夜氏は中世にも賀陽[かや]氏を名乗って地元豪族としてにらみを利かせた。
 物部氏の家伝『先代旧事本紀』所収の『国造本紀』でも、吉備の中心地・加夜郡はもと加夜国であったとあり、おそらく賀夜氏はこの吉備加耶系王権の王家として君臨した加耶系集団の後裔と考えられる。
 注目すべきは、例の箸墓から埴輪の祖形と見られる吉備系土器が出土したことである。一方、岡山県の前期前方後円墳である都月坂1号墳からは、箸墓から出土した特殊器台と類似した器台が出土している。こうした事実は、吉備王権と畿内王権との間に深い交流があったことを示している。

丹波加耶系王権
 日本海側では、丹後半島日本海側最大級の古墳群を残した「丹後王国」が樹立された。規模の点でも網野銚子山古墳(墳丘長198メートル)のように日本海側最大級で、相当な実力を持った王権であったと見られる。また、この王権は舟形石棺・木棺の出土でも知られ、海洋国家としても栄えたことがわかる。
 この地域には平成の大合併で消滅するまで、まさに加悦[かや]町が存在し、古墳群もこの町に多く集中していたことから見ても、丹後王国は加耶系王権であったと見られる。
 ちなみに、『丹後国風土記』(逸文)によると、今日でも旧加悦町が含まれた与謝郡の名所旧跡となっている天橋立イザナギノミコトが天に通うために梯子を作ったが倒れてしまったことから、久志備[くしび](神異)であると思い、久志備の浜と呼んだ。それが後に久志[くし]になったという。
 ここで、久志とは、天孫降臨神話でもニニギの降臨地として登場した久士布流の久士と通ずるところで、こうした伝承はやはり「丹後王国」の加耶出自を物語っている。
 おそらく、丹後加耶系王権は、糸島半島を出発した東征勢力の一部が玄界灘から日本海沿いに丹後半島までたどりつき、定着・形成したものではないだろうか。
 なお、この地域の古墳群は沿岸部の丹後半島に所在することから、「丹後王国」とも呼ばれるわけだが、『記紀』には丹波道主命とか丹波道主王という人物が登場する。『記紀』は大和中心史観に基づいて、この丹波系豪族をも大和朝廷側の系譜に組み入れているが、丹後は和銅六年(713)の地方行政改革まで丹波に含まれていたことから、丹波全域を支配する丹波加耶系王権が4世紀に成立し、この丹波道主[たにはのみちぬし]こそがその王であったとも考えられるところである。

日向加耶系王権
 加耶系渡来勢力は南九州にも足跡を残している。九州全域でも最大規模の300基を超える古墳群である西都原古墳群を残した王権がそれである。
 この古墳群で特徴的なのは前方後円墳の前方部を低くする柄鏡式と古墳に木棺を直葬し、その周囲を粘土で包む粘土槨であるが、いずれも加耶的特徴を持ち、類似の古墳が加耶地方でも発見されている。
 地名から見ても、西都原古墳群を含む地域に日向国児湯郡韓家郷という古地名があるが、「韓家」はカラヤとも読め、加耶の転訛と解する余地がある。
 『書紀』には、日向国の有力豪族として諸県君[もろかたのきみ]が登場する。諸県の名からも、相当に広い支配領域を持った地方王権の首長と考えられる。
 『書紀』における諸県君の初出は景行紀における景行天皇による熊襲征伐譚に付随するような形を取っているため紛らわしいが、諸県君と熊襲とは区別される。
 諸県君は応神紀にも再度登場し、そこでは応神天皇が召す予定であった諸県君牛諸井[うしもろい]の娘・髪長媛を見初めた太子(後の仁徳天皇)に彼女を譲ったという逸話に絡められている。説話風の脚色を剥ぎ取ってみれば、これは畿内王権と諸県君の通婚同盟の成立を示している(その経緯については、第六章で述べられる)。
 この諸県君を首長とする日向加耶系王権も、九州北部へ渡来してきた加耶系勢力が東征ならぬ南征して九州南部に定着し、独自の王権に発展したものと考えられる。
 ちなみに、熊襲はさらに南の襲(曾/贈)と呼ばれた地域(後の大隅国曽於郡)に割拠した先住民族・隼人の一部族と見られる(熊襲と隼人の異同については諸説あるが、立ち入らない)。熊襲は隼人の中でも極めて強力な部族で、最後まで容易にまつろわず、第一章でも触れた720年の隼人大反乱の中心勢力と見られることから、他の隼人勢力とは区別された特殊な名辞が与えられたものであろう。
 注目されるのは、熊襲の人名にアツカヤ、サカヤ、イチフカヤ、トロシカヤなど、決まってカヤが付くことである。熊襲とはカヤ族なのである。このカヤが加耶と同一かどうかは即断できないが、同一とすれば熊襲の中でも少なくとも族長層は九州南端に定着した加耶人と先住隼人の混血であったと見る余地もある。

その他の加耶人集住地域
 以上のような大古墳群を築造する実力を持つ王権に発展しなかったが、加耶人が一般住民として、もしくは小王権を形成して集住したと見られる地域がいくつか確認できる。
 その代表的な地域は九州北部の糸島半島である。ここはまさにニニギに象徴される金官加耶系渡来集団の最初の上陸地であったわけだが、この付近に畿内に匹敵するような大古墳群が見られないことは前にも指摘した。
 とはいえ、糸島半島付近には加耶的特徴を伴った40基ほどの前方後円墳が確認され、特に4世紀後半と見られる12基の中には墳丘長100メートル級のものも含まれているという事実をどう見るかは一つの問題である。
 思うに東征に参加せず、糸島に残留した集団が、邪馬台国衰亡後の4世紀中頃、ここに一定以上の実力を持つ王権を形成した可能性はあるが、発展を見なかったことが、終末期にまで及ぶ大古墳群を残さなかった事実に示唆されている。その理由は、私見によると畿内王権の動向と深く関わるので、改めて後述することにしたい。
 その他、長門から出雲西部、さらに北陸から内陸の近江にかけての地域には、アラとかアヤ、あるいはそれが転訛したアナといった地名が数多く見られる。これらは、金官加耶国同様に加耶地方南部の小邦で、今日の慶尚南道咸安[ハマン]にあった安羅(安耶)国に由来すると考えられる地名である。従って、これらの地名は安羅国からの集団渡来の痕跡と解し得る。
 ただ、『書紀』の記述などからすると、この安羅国が台頭してくるのは金官加耶国が衰退した後の6世紀代に入ってからと見られ、安羅人の集団渡来時期は4世紀よりも遅いのではないかとも考えられることから、4世紀を扱う本章では深入りしないことにしたい。