歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東通史―中心⇔辺境(4)

五 東国の自立化

 律令体制下の関東は、駅伝制のような古代的交通手段の発達により、それ以前に比べれば中央の統制が及ぶようになった。平安時代に入ると、関東八国のうち、常陸国上総国上野国の三国は親王任国となり、親王が遙任ながら国司に任命される枢要地域となった。
 ただ、平安中期以降、公地公民を理念とする律令制収奪体制はほころびを見せ始め、次第に前封建制的な様相を呈するようになる。国司親王に限らず、遙任が多くなり、在地管理者層(開発領主)による土地私有制が発達していく。
 こうした開発領主層は相互に対立することも多く、しばしば武力紛争に及ぶこともあった。有力者は常時武装するようになり、一部は後の武士の前身を成した。
 中央から地理的にも遠い関東はこうした律令制解体の象徴となった。再び、関東は中央からの自立化傾向を見せ始める。まだ関東が中心としての座を畿内から奪還するのは遠い先であったが、その前哨戦となる大事件が10世紀前半に発生する。平将門の乱である。
 平将門臣籍降下された皇族一門桓武平氏の一員であるとともに、関東に土着し、後世武家として大勢力を築く坂東平氏の初期の実力者でもあった。彼は下総国を本拠とした父・良文の下、関東に生まれ、成長してから一時出仕した中央では地位に恵まれず、帰郷した。
 彼が首謀して起こした反乱の経緯についてはすでに多くの叙述があるため、割愛するが、ともあれ彼が「新皇」を名乗り、関東を「独立」させようとしたことは、天皇王朝にとっては衝撃であり、看過することのできない大逆であった。
 朝廷では直ちに討伐軍を組織し、派兵した。この時に活躍したのが、藤原氏一門でありながら、やはり関東に本拠を持った藤原秀郷である。秀郷の出自に関しては藤原氏仮冒説もあるが、藤原氏系としても関東に土着した傍流の出であることは間違いない。
 共に中央の皇族・貴族の末裔である二人の関東人の武将が関東を舞台に激突し、将門は敗北した。彼の関東独立の野望は虚しく潰えたとはいえ、将門は関東における伝説的英雄となった。彼は出自からしても民衆の代表者などではなかったが、周縁の地として中央の収奪対象とされてきた関東の民衆にとって、中央に楯突いて壮絶な死を遂げた将門は英雄に映ったであろう。
 反乱自体は比較的短期に平定されたが、事件の歴史的な余波は大きかった。将門も属した坂東平氏と後に多くの関東武士団の母体ともなる藤原秀郷一門は、後に関東を拠点とする武家時代を用意する基盤となる。将門の野望は時期尚早ではあったが、空想ではなかったのである。

前回記事を読む