歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

もう一つの中国史(連載第2回)

一 南中国の独自性

 

(1)基層‐長江文明
 現代中国は広大な単一国家の形態を採り、民族構成上は南北ともに大多数を漢民族が占めるとされているが、実際のところ、首都北京を中心とした北中国と上海を中心とした南中国とでは言語的に大きく異なる。今日ではそうした言語差も単一の中国語内部の方言差として説明されているが、歴史を遡れば、南北中国は別の文明圏であったことが判明してきている。
 本来の漢民族の本拠は黄河流域であり、この流域で発達した古代文明黄河文明として、いわゆる世界四大文明の一つにも数えられてきた。長い間、この黄河文明を担った人々が南下して南中国にも勢力圏を拡大したと単純に想定されてきたが、文革終了後「改革開放」の頃を境に考古学研究が大きく進展すると、こうした漢民族中心史観を覆す発見が多くなされるようになった。
 特に文革末期の1973年に発見された浙江省河姆渡〔かぼと〕遺跡は最古級の稲作遺跡であり、この地域には畑作系の黄河文明とは明らかに異質の文化的特質が認められた。ここで栽培されていた稲はジャポニカ米の原種であり、日本の稲作ルーツを考察するうえで重要な標準遺跡として日本でも注目されてきた。
 長江文明を担ったのがどのような民族であったのかは未だ不明であるが、形質的には日本の弥生人との近似性も指摘されており、稲作ルーツとともにその系譜関係が議論されてきた。水稲文化でくくれば、日本の北九州や朝鮮半島南部までを包含する海を越えた連環文化圏を想定することができるかもしれない。
 この長江文明は紀元前14000年頃から同1000年頃までの長きにわたって続いており、河姆渡遺跡を中心とした河姆渡文化は中期の前5000年頃のものと推定されている。長江文明の最盛期はこの中期の時代であり、前2000年紀を過ぎると衰退の色が見える。
 しかし、完全に衰滅したわけではなく、最末期の江西省呉城文化は黄河文明圏の最初の王朝的所産である商の時代と並行しており、黄河文明系の青銅器文化である二里岡文化の影響下に、独自の混合的な文化圏を生み出したと評価される。
 この呉城文化を最後に、長江文明としてくくられる文明圏は消滅するが、これをもって商をも打倒した新興の周王朝による征服の結果とみなすべきかどうかは定かでない。後の中国南部には越や楚のような独自文化を備えた強国が現れるところからすると、長江文明は南下・浸透してきた黄河文明とも融合しながら、新たな文明段階に入ったとも考えられる。