歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ユダヤ人の誕生(連載第8回)

Ⅲ 入植・王国時代

(7)平野部再移住
 前回、旧約の「出エジプト」とは本来ほぼ今日のパレスチナに相当するカナンの先住民であった原カナン人の一部が、エジプトの支配を逃れて山地へ移住した事実を壮大な物語化したものであろうと論じた。
 旧約によれば、ユダヤ民族はモーセに率いられてエジプト本国を出国し、苦難の末、モーセを継いだヨシュアの時、カナンの地へ帰還を果たすが、モーセ一行がたどったとされるルートの検証がほとんど成功していないのは、エジプト本国からユダヤ民族が大挙して出国したということが史実でない以上、当然のことである。
 実際のところ、ヨシュア以降、いわゆる士師時代に進展するユダヤ民族のカナン入植とは、いったん中央山地へ逃れ定住していた勢力が再び平野部へ再移住していった事実の反映であると考えられる。
 通常、士師時代は初期鉄器時代、すなわち紀元前13世紀末頃から紀元前11世紀中頃までと理解されているが、山地へ逃れた勢力が平野部へ再移住し得た要因として、エジプトの西アジア支配が失われたことが最も大きいはずであるので、それを考慮すれば、エジプトが最盛期を過ぎ衰退を始めた第20王朝の時代、ことにエジプトの内政が混乱に陥った紀元前12世紀半ば以降の可能性が高い。
 旧約によれば、士師時代のカナンには「カナン人」をはじめとする七つの異民族が居住しており、ユダヤ民族はこれら異民族を征服してカナン入植を進めていくことになるのだが、実際上これらの「異民族」とは元来はユダヤ民族と同様に「原カナン人」から派生した諸民族にほかならなかった。
 山地勢力は山地居住を通じてカナン伝統の宗教とは異なる後のユダヤ教につながる独自の宗教的慣習とそれをベースとした民族的アイデンティティを形成しており、平野部勢力を打倒すべき「異民族」と認識するようになっていたのであろう。
 真に「異民族」と言えたのは、士師時代後半期に主敵となるペリシテ人勢力である。ペリシテ人とはパレスチナの地名の語源ともなった勢力で、元来はいわゆる「海の民」の構成集団で、エジプト当局の許可の下、カナン南部地域に居住していた。かれらの民族的出自は多様であったが、その支配層はギリシャ系と見られる。
 旧約では特に士師サムソンの物語の中でペリシテ人との抗争が中心的に叙述されているが、おそらくエジプトの衰退後、ペリシテ人も自立化し、いくつかの都市国家に分かれて勢力を張るようになり、同じく優勢化していたユダヤ勢力と衝突を起こすようになったのだろう。
 旧約によれば、ユダヤ民族はこれらの敵勢力を順次征服してカナンの地の支配者となるのだが、完全に滅ぼすことはしなかったとされているとおり、入植の過程で近隣集団と衝突を繰り返しながらも、通婚・混血によってこれらの集団を吸収・同化していったのであろう。
 こうした入植活動を指揮したのが旧約で士師と呼ばれる英雄的指導者たちであったが、この時期のユダヤ民族はまだ統一されておらず、山地勢力が首領に率いられた小さな武装集団に分かれて順次平野部への入植活動を展開し、平野部の新たな居住地域ごとにいわゆる十二部族に代表されるような諸部族を形成するようになったと考えられる。
 同時に、こうして平野部再入植を果たして初めて、統一した民族意識イスラエル人―も形成され、政治的にも独自の王国樹立への機運が生じていったのであろう。