歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第20回)

五 森藩の場合

 

(3)社会動向
 森藩は小藩ながら、関ケ原の戦いの後、西軍派としていったん浪人していた瀬戸内出身の藩主家が幕府から赦され、わずかな家臣を率いて地縁のない土地に授封されたうえ、地元土豪を家臣団に組み入れて立藩されたという経緯のわりに政治・社会の安定性が高く、長い歴史を通じて大きな動乱は経験していない。
 ただ、初代藩主・来島長親が藩の基盤が定まる前に31歳で早世し、跡を幼児の通春が継ぐこととなったが、成長した通春は英明で、村上水軍時代からの旧臣を退け、地元の人材を登用、大坂蔵屋敷を設置するなど、50年近い長い治世で藩政の基盤を強固にしたことが、安定の基礎となった。
 通春を継いだ第3代通清時代の寛文三年(1668年)、参勤交代に際して瀬戸内海を航行中、暴風雨に遭い、藩主の弟・通方の御座船が座礁転覆、通方のほか、乗船していた家臣全員が死亡するという海賊出自にしては皮肉な惨事に見舞われたが、藩主は無事であった。
 その後の歴史を通じて、藩主の座をめぐる骨肉紛争もなく、また小藩でもしばしば見られた百姓一揆も発生しなかったので、森藩は社会的安定性にかけては全国諸藩でも群を抜いていたと言える。そのため、社会動向として特記すべきことは少ない。
 ただ、前回見たように特産品となった明礬の利権をめぐっては、幕府や専売商人を巻き込んだ争いが発生したが、これとて藩そのものではなく、外部勢力の争いであった。とはいえ、藩の利権にも関わるので、前回の補足を兼ねて、ここでその紛争の概要を略記しておく。
 前回も見たように、豊後明礬の生産を本格化させたのは武家の新田氏を遠祖とするという庄屋の脇儀助であったが、明礬作りに傾倒した儀助は庄屋職を弟に譲って明礬専業の脇屋を設立し、大坂の明礬商人・近江屋と組んで、幕府の認可の下、江戸と大坂、後には京都と堺にも明礬会所を開設・運営した。
 かくして、生産者の脇屋‐販売者の近江屋というタッグで、全国の明礬シェアの過半を抑える独占体制を築くが、天保の改革で幕府が会所の閉鎖と明礬山の森藩直営を命じると、脇屋は新たに明礬の直売を開始する。近江屋はこれを約定違反として幕府の勘定奉行に提訴したが、結果は、実質上脇屋の勝訴であった。
 森藩はこの紛争の当事者ではなかったが、物価高騰の元凶として独占商人の同業組合である株仲間を解散させた幕府の方針転換によって漁夫の利を得る形で、明礬山そのものを手に入れ、以後、明礬利権を確保したのである。幕末期には藩の山奉行・岩瀬謙吾なる者が明礬生産を支配した。