歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

外様小藩政治経済史(連載第19回)

五 森藩の場合


(2)経済情勢
 立藩経緯でも見たように、森藩は元来瀬戸内海の水軍勢力であった来島(久留島)氏が陸に上がり、江戸幕府から縁のない豊後に狭隘な領地を安堵されたものであり、入部当時は草木が茂る深林とわずか十数軒の民家があるのみというゼロに近い状況からのスタートであった。
 森藩所領の中心を成す玖珠は中世以来、公家に出自する玖珠郡衆(豊後清原氏)と呼ばれる土着武士団が割拠支配していたところ、豊臣政権時代に豊臣氏直轄領(太閤蔵入地)に編入され、清原武士団も帰農させられていた。
 森藩はそうした帰農した在地の旧土豪層も新たな家臣団に組み込みつつ、職人や商人も誘致して陣屋を中心とする陣屋町の建設に着手したが、それでも豊後で最小の標榜1万4千石知行(後に分知により1万2千5百石に減少)では財政的に苦しかったであろうことは想像に難くない。
 第5代藩主・久留島光通時代の享保十七年(1732年)には飢饉に見舞われ、幕府からの2千両の借財や上米制の施行などを余儀なくされている。転機は、民間からもたらされた。すなわち、在地民間人が享保十年(1725年)に国産明礬(ミョウバン)の本格生産に成功したことであった。
 実は、国産明礬はそれに先立つ17世紀後半の寛文年間に肥後出身の浪人と言われる渡辺五郎右衛門が技術的な生産には成功していたが、当時圧倒的なシェアを持った安価な中国産輸入明礬との競争に勝てず、半ば打ち捨てられていたものを、脇(脇屋)儀助なる庄屋が本格的に明礬山を開き、中国産の輸入制限措置を幕府に働きかけて専売体制を作り上げた。
 これ以降、国産明礬の生産は森藩領と幕府天領にまたがる明礬山の利権を幕府と森藩が分有する形で、森藩は三割強の全国シェアを分け持つ特産品となり、専売業者からの運上金を通じて藩財政を支えることになった。特に、天保の改革後は幕府が脇屋ら専売業者の特権を剥奪して手を引き、森藩の独占を認めた。
 これによって、藩財政にある程度ゆとりが生じたためか、時の第8代藩主・久留島通嘉[みちひろ]は小藩としては異例の大名庭園(久留島氏庭園)や神社を造営するなどしたため、その半世紀近い長い治世で藩財政は悪化し、上米制を実施するなど、政策に矛盾があった。

 跡を継いだ第9代藩主・久留島通容[みちかた]は倹約令を発するとともに、明礬依存経済を脱するべく、養鶏、養蚕、植林製紙などの産業多角化を通じた藩政改革を目指したものの、わずか四年で死去したため、改革は頓挫し、幕末を迎える。