歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ユダヤ人の誕生(連載第16回)

Ⅴ ローマ支配から亡国まで

(15)抵抗運動と挫折
 前回述べたように、一時的に実質上ヘロデ朝を復活させたアグリッパ1世が44年に死去した後、そのローマ育ちの息子アグリッパ2世はもはやローマ帝国の完全な傀儡にすぎなかった。第一次ユダヤ戦争はそうしたアグリッパ2世の時代に起きたユダヤ人による最初の反ローマ蜂起であった。
 それは偶発的に始まった。発端はヘロデ大王が建設した海辺の都市カイサリアでギリシャ人がユダヤ教会堂シナゴーグを冒涜した行為に対してローマ当局が介入しなかったことに関連し、ユダヤ神殿の管長が抗議行動を組織したことにあった。これに反重税の抗議行動も加わり、エルサレムでも暴動に発展していったのである。
 対抗上、ローマ当局が見せしめに多数のユダヤ人を処刑したことでかえって火が付き、全土的な騒乱状態となった。時の皇帝ネロは後に自らも皇帝となる将軍ウェスパシアヌスを派遣するも、ネロの自殺に端を発するローマ政治の混乱もあって、戦線は膠着する。しかし、ウェスパシアヌスは息子ティトゥスとともに、アグリッパ2世の助力も得ながら各都市を撃破し、ついに70年には首都エルサレムを制圧する。
 こうして以後、ユダヤはローマ属州として実質上の軍政下に置かれることになる。多くのユダヤ人がローマ当局の報復を恐れて海外へ離散し、ディアスポラとなった。しかし、ユダヤ人の抵抗はこれで終わらず、散発的な抵抗が続く。
 特に115年から117年にかけて、キプロス島を含む中東のユダヤディアスポラが大規模な同時多発的反ローマ蜂起を起こした。この反乱鎮圧の功労者クイエトゥス将軍の名を取って「キトス戦争」とも呼ばれるこの蜂起もまたローマ軍の前に粉砕されたが、反乱終結の年にトラヤヌス帝から皇位を継いだハドリアヌス帝はユダヤ支配の強化を目指し、エルサレムをローマの当時の国教であったユピテル神殿を伴うローマ風都市として再建したうえ、自らの氏族名にちなんで「アエリア・カピトリーナ」と改名さえした。
 表向きユダヤ人に同情する態度を示していたハドリアヌス帝は第一次戦争以来荒廃していたエルサレムの再建を公約し、一時はユダヤ人の間で解放者のようにみなされていたが、ハドリアヌスの底意が判明すると、ユダヤ人の失望は怒りに変わった。
 132年、当時のユダヤ教最高指導者ラビ・アキバによって救世主メシアと宣言された一介のユダヤ人バル・コクバが指導者となって武装蜂起し、エルサレムを解放した後、バル・コクバは「大公」を名乗り、ラビ・アキバを宗教上の最高指導者とする事実上の独立国家の樹立に成功した。
 しかしハドリアヌス帝は将軍セウェルスに命じてバル・コクバ政権への反撃を開始、3年の戦闘の後、135年にはエルサレムを制圧した。バル・コクバは戦死し、ラビ・アキバも処刑された。こうしてしばしば「バル・コクバの乱」ないし第二次ユダヤ戦争とも呼ばれるこの武装蜂起も圧倒的なローマ軍の前に挫折に終わった。
 戦後のローマの対ユダヤ政策はいっそう民族浄化的なものとなった。ユダヤ属州からユダヤの名は削られ、代わりにかつてユダヤ人と敵対したぺリシテ人の名にちなんだシリア・パレスチナ属州と改名された。予定どおりに建設されたエルサレム改めアエリア・カピトリーナにはユダヤ人の立ち入りが禁じられた。これによって、ユダヤ人のディアスポラ化は決定的となる。