歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版アイヌ烈士列伝(連載第3回)

三 チコモタイン(生没年不詳)/ハシタイン(生没年不詳)

 アイヌ烈士と言えば、和人勢力との戦いで活躍した武闘派人物に偏る傾向を否めないが、逆に、和人勢力との和平で功績のあった人物も一種の烈士に含めてみたい。そうした場合、1550年(異説あり)にアイヌと和人勢力との間で結ばれた講和協定「夷狄の商舶往還の法度」でアイヌ側代表者となったチコモタインとハシタインの二人を挙げることができる。
 二人の詳細な履歴は不明であるが、両人とも渡島半島アイヌの有力者で、チコモタインは東部シリウチ(現知内町)、ハシタインは西部セタナイ(旧瀬棚町:現せたな町の一部)に根拠を持ち、半島東西の代表者として、講和協議に参加したと見られる。
 この協定はコシャマインの蜂起以来、百年近くにわたって続いてきたアイヌと和人の間の紛争を解決するべく、蝦夷地の渡党指導者として地位を確立しつつあった蠣崎氏(後の松前氏:当代は蠣崎季広)との間で結ばれたものである。
 この協定の重要な点は、アイヌ領域と和人領域を初めて明確に画定し、シリウチ乃至天河(天の川:現上ノ国町)より北東域をアイヌ地とし、松前(蠣崎氏本拠)及び天河は和人地とする旨を約したことである。
 そのうえで、チコモタインに「東夷尹」(ひがしえぞのかみ)、ハシタインには「西夷尹」(にしえぞのかみ)の称号を与えるとともに、蠣崎氏を和人勢力の代表者と認め、商取引の統制者とすることで合意されたのであった。
 これによって、チコモタインとハシタインは渡島半島アイヌの東西の首長となったばかりか、蠣崎氏が和人との交易で徴収した関銭の一部をチコモタインとハシタインがそれぞれ収取するという一種の徴税権まで獲得した。
 このように和人勢力とほぼ対等的な協定の締結に至ったのは、それだけ和人勢力が過去のアイヌとの戦争で苦戦させられていたこともあろうが、アイヌ側代表者のチコモタインとハシタインも相当な外交的交渉力を備えたタフ・ネゴシエーターであったに違いない。
 この講和協定は江戸幕府が開かれた後も基本的には継続され、江戸幕府が開かれるまでの半世紀余りはアイヌと和人の関係性が歴史上最も安定した時期であったが、江戸幕府が開かれ、蠣崎氏改め松前氏が松前藩主としてアイヌ交易の独占権を付与されると、アイヌと和人勢力との関係性が和人優位に変化していく。それにより、再び武闘派烈士の時代が訪れることになる。