歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版アイヌ烈士列伝(連載第4回)

四 シャクシャイン(?‐1669年)

 16世紀半ばのアイヌ‐和人勢力間で結ばれた講和協定「夷狄の商舶往還の法度」により、ひとまずアイヌと和人の間の紛争は沈静化し、その後の一世紀余りは平和な状態が続くが、協定はアイヌを東西の勢力に大きく分断するという代償を伴っていた。
 その結果、東部のメナシクルと西部のシュムクル(またはハエクル)の二大勢力が分立し、それぞれが惣乙名と呼ばれる首長級指導者によって束ねられるようになる。これは和人側の分断統治が功を奏したとも言えるが、元来、統一的な国を形成せず、地域的な集団ごとに分立していたアイヌの民族的な慣習のなせるわざでもあった。
 一方、和人側では協定を主導した蠣崎氏の勢力が強まっていたが、その後、松前氏に改姓した蠣崎氏は江戸幕府の開府後も幕府から蝦夷島主としての地位を認証され、しばらくは客分扱いながら、黒印状をもってアイヌとの交易権の独占が許された。
 この近世松前氏に対する最初の抵抗を試みたのは、西蝦夷地シマコマキ(現島牧郡)に根拠したアイヌ集団の惣乙名ヘナウケであるが、この1643年の蜂起の詳しい経緯やヘナウケの人物像も不詳である。
 松前氏の独占交易は松前氏側が家臣への知行として特定地域のアイヌ集団との独占的交易権を与えるという形態の封建的な交易制度であったため、必然的にアイヌの各集団間で漁猟をめぐる権益争いが生じることとなった。
 とりわけメナシクルとシュムクルの間の抗争は1648年に武力紛争に発展し、1660年代まで断続的に一種の内戦状態に入った。その過程で戦死したメナシクルの惣乙名カモクタインに代わって台頭してきた新たな惣乙名がシャクシャインである。
 前近代の他のアイヌ烈士と同様、シャクシャインの前半生も不詳であるが、シュムクルとの紛争渦中の1668年にシュムクルの惣乙名オニビシを襲撃・殺害したことで脚光を浴びる。これは、先年オニビシに殺された先代の惣乙名カモクタインの復讐戦でもあったようである。
 シュムクルは松前氏との結びつきがかねてより強く、メナシクルとの戦闘のため松前氏に武器の援助を求めたが、アイヌ紛争では調停者の役割を果たしてきた松前氏側に拒否された。その交渉帰路、シュムクル側の使者(オニビシの姉婿)が急病死したが、その原因が「松前氏による毒殺」とアイヌ側で誤報されたことから、紛争の局面が一変する。

 シュムクル使者の真の死因は「疱瘡」とされているが、当時のアイヌ民族感染症の病態知識が乏しく、松前氏側に武器援助を拒否されたことへの反発も手伝って、シュムクル側がこれを「毒殺」と誤信し、同胞に伝えた可能性もある。
 いずれにせよ、これを機にシャクシャインは矛先を松前氏に向き変え、対立していたシュムクルを含めたアイヌ全体に反松前蜂起を呼びかけたのである。これに対しては、シュムクルをはじめ、より奥地のアイヌ集団もすぐさま呼応して二千人の軍勢となり、全面戦争の様相を呈した。
 このように各地のアイヌが即座に反応したことには、松前氏の交易価格つり上げその他の統制に対するアイヌ側の不満が鬱積していたことも寄与していたようである。この不意を突く武装蜂起は当初アイヌ側に勢いがあったが、幕府や東北諸藩の支援を受けた松前氏側がすぐに盛り返した。
 この頃のアイヌは鉄砲も備えていたため、シャクシャインは本拠地のシベチャリ(現静内)にこもり、長期戦の構えを見せるが、松前氏側はアイヌ集団を個別に分断してコシャマインを孤立させたうえ、和議の宴席を設けて呼び出し、謀殺するという従来の騙し討ち作戦でシャクシャインを仕留めた。松前氏は他のアイヌ指導者も同様の手法で謀殺し、武装蜂起の鎮圧に成功した。
 シャクシャインの蜂起は如上の「誤報」に基づいていたこと、緒戦では女性子どもを中心に和人数百人を殺害するテロ戦術を用いたことなどから、シャクシャインの評価は難しいが、松前氏の圧政に対するアイヌ民族総体の怒りを体現する人物であったことは確かである。