歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版琉球国王列伝(連載第1回)

 近年の沖縄県の話題と言えば「基地問題」が圧倒的であり、王国時代の琉球史が本土で顧みられることはほとんどない。当の沖縄でも王国時代は過去の歴史となり、日本領土の一部たる「沖縄県」であることは当然の前提となっているように見える。
 しかし、琉球王国は事実上の併合である「琉球処分」(1879年)まで存続していたのであり、さほど遠すぎる過去のことではない。しかも、それは徳川幕府以上に長い400年以上にわたり存続した。
 人口20万人にも満たない小さな南の王国がなぜそれほど長く続いたのか、またそれがなぜ併合という形で滅んだのか。そのような問題意識を持ちながら、琉球王国時代を振り返ることは「沖縄県」という固定された思考枠組みから自由になるうえでも、実益のあることと思われる。
 当連載は、「沖縄県」を離れ、琉球王国時代の歴史を紀伝体という古風なスタイルで叙述する試みである。その際、琉球王国とは1429年の尚巴志王による琉球統一に始まる所謂第一尚氏王朝と、それに続く1469年の尚円王の即位に始まる所謂第二尚氏王朝を合わせた全26代に及ぶ両尚氏王朝を指すものとする。
 知られているように、両尚氏王朝に血縁関係はなく、第二尚氏が尚氏を称したのは自称にすぎないが、両尚氏王朝はいちおう連続した琉球統一王朝として想定することができるので、合わせて琉球王国と呼ばれることが多く、ここでもそれに従う。
 一方、日本史上はしばしば過度に強調されるように、第二尚氏王朝時代の1609年以降、琉球王国薩摩藩の侵攻を受け、同藩の付庸国となる。実際は、琉球王国が一貫した国策とした中国大陸王朝への統属と同様、一定の制約は受けながらも事実上の独立状態を維持した統属であった。
 従って、この間の琉球王国をことさらに日本の属国として描写することは避け、明治維新後に「琉球処分」が完了するまでは事実上の独立王国として把握していく。
 とはいえ、薩摩藩侵攻後は形式上薩摩藩主島津氏が宗主となり、以後の琉球王国史は薩摩藩史とも交錯してくる。そこで、この時代の第二尚氏王朝期に関しては、相応する薩摩歴代藩主と対照させるダブル叙述を試行してみたい。