歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イエメン―忘れられた近代史(8)

七 統一後の混乱

 
 想定以上にスムーズに実現したイエメン統一であったが、それは滑り出しからつまずく。まずは、統一プロセス渦中で発生した湾岸戦争で、サレハ政権がクウェートを侵攻・占領したイラクを支持するという誤った選択をしたことである。
 このような選択は元来、北イエメン時代からサレハ政権がイラクサダム・フセイン政権と同盟的関係にあったことの結果ではあるが、同時にサレハ政権はイラクが侵攻・占領したクウェートやその同盟国サウジアラビアにも多くの出稼ぎ労働者を送る立場にあった。
 このようなイエメンの親イラク姿勢に対し、クウェートサウジアラビアは報復としてイエメン人労働者の大量送還で応じ、従来友好的な関係が築かれ始めていたサウジをはじめ湾岸諸国や西側諸国からの支持・援助を喪失した。
 特に海外出稼ぎ労働者やイエメン国籍者の大量帰還は統一イエメンの人口を10パーセント近くも急増させ、難民を生じさせるなど、統一したばかりの国家を政治経済的な危機に陥れた。
 これに加え、北主導の統合に対する旧南イエメン派の不満が、統合後初となる93年の議会選挙後に爆発する。政府を離脱した旧南イエメン系のベイド副大統領らは94年5月、イエメン民主共和国の樹立を宣言した。
 このような南イエメンの分離主義の背景には、旧南イエメンに対する差別的な処遇という問題もあったが、経済利権問題も絡んでいた。特に、湾岸諸国に比すれば少ないながらも、油田は潜在的なものも含めて南北の境界地帯に集中しており、このことは統合過程では統合促進材料となったが、分離過程では分離派の強い動機となっていた。
 94年5月から7月にかけて、南北間での内戦に突入するが、南の分離政府は国際的な承認が得られない中、最終的に軍事力で勝る北の勝利に終わった。実際のところ、南イエメン独立派は南出身者総体の支持を受けていたわけではなく、86年の内乱後、北に亡命していたムハンマド元書記長のように分離に反対した元要人もいたのである。
 こうして統一後に史上初めて発生するという皮肉な南北イエメン内戦は、完全な吸収合併の形を取った東西ドイツ統一とは異なり、南北の合同にすぎなかったイエメン統一の脆弱さをさらけ出したが、北の勝利に終わったことで、サレハ政権の基盤固めを助けた。
 政略に長けたサレハは、94年10月に統一イエメンの大統領として再選されると、懸案であった軍の統合を進め、97年にはイエメン軍最高位の陸軍元帥の称号を得るなど、統一イエメン政軍関係の掌握を確実にしたのである。