歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イエメン―忘れられた近代史(5)

四 両イエメンの歩み〈1〉

 
 両イエメンは、ともに1970年に転機を迎えた。この年、北イエメンでは62年共和革命以来の王党派との内戦が正式に終結し、改めて共和国として再出発した。一方、南イエメンでは前年の英国からの独立を経て、民族解放戦線内のマルクスレーニン主義派が主導する社会主義共和国が発足する。
 両イエメン関係は、当時の冷戦期にあって東西ドイツ南北朝鮮のような分断国家の形を取っていたが、ともに社会主義的な傾向を持ち、そのイデオロギー的な相違は相対的なものであった。とはいえ、当時の北イエメンのイリアニ政権は南イエメンに敵対的な態度を取り、早くも72年には南北間の武力衝突が起きている。
 しかし北イエメンでは74年に新たな軍事クーデターが発生し、イブラヒム・アル‐ハムディ大佐が指導する軍事政権が樹立された。この政変は、内戦初期の63年のクーデター以来、政権の座にあったイスラーム法判事出身のイリアニ大統領の保守的な政治姿勢に対する反発―革命の軌道修正―が動機となっていた。
 ハムディ政権は南イエメンとの融和策を打ち出すとともに、いまだ中世的な伝統を保持していたイエメン社会の近代化とインフラ整備を強力に進めた。結果、ハムディ政権下では共和制樹立以来、最大の経済成長も経験したが、その政治手法は強固な軍事独裁であった。
 こうした第二の革命政権のような性格を持ったハムディ政権は77年、ハムディの暗殺によって終焉した。事件の真相は不明のままである。2011年になって、後に30年以上の長期独裁体制を維持したサレハ大統領(事件当時は中堅将校)の暗殺関与を示唆する証言が現われた。
 ハムディの後任には軍事政権のメンバーでもあったアーマド・アル‐ガシュミが就任したが、彼は南イエメンとの統合に傾斜するハムディ政権を排除したいサウジアラビアの支持を受けており、ハムディ暗殺への関与も疑われる。ところが、ガシュミもまたわずか八か月で暗殺されてしまう。
 ガシュミ暗殺は南イエメンからのメッセージを携えた特使の所持していたブリーフケースに仕掛けられた爆弾が爆発するという異例の爆弾テロ事件であった。当然、南イエメンの関与が疑われたが、この事件も未解明に終わっている。
 実は暗殺事件の二日後、南イエメン側でも当時のサリム・ルバイ・アリ指導評議会議長(元首)がクーデターで失権したうえ、即決処刑される政変が起きた。ルバイ・アリも北イエメンとの融和に積極的でハムディと親しかったことから推すと、南北でほぼ同時に起きた一連の政変は相互に関連しているとの推測も可能である。
 いずれにせよ、1978年は両イエメンにとって新たな転機となり、北では軍幹部アリ・アブドゥラー・サレハ大佐が大統領に就き、南北統一をまたいで30年以上に及ぶこととなる長期政権を開始する。南でも改めてNLFを母体とするイエメン社会主義者党による一党独裁体制が樹立される。