歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イエメン―忘れられた近代史(7)

六 イエメン統一まで

 
 両イエメンは、ほぼ同一・同種民族間のイデオロギー的分断国家という点では、同じ冷戦期に現出した東西ドイツ南北朝鮮と類似していたが、それらに比べれば、ともに社会主義的志向性を持つ両イエメンのイデオロギー対立の溝はさほど深くなかった。
 そのため、早くも冷戦渦中の1972年には両イエメン統一の合意がいったんは成立していた。とはいえ、大まかに言えば、アラブ社会主義民族主義)対マルクスレーニン主義という路線の違いはあり、特に南イエメン側で強硬派が主導権を握っていた70年代末には両イエメンで統一積極派が排除され、再び緊張関係に陥る。
 しかし、80年代に入って南イエメンで強硬派が排除されることで再び統一機運が起き、1981年には統一憲法の起草にまでこぎつけた。ところが、強硬派が盛り返し、86年には内乱に発展したことで、またしても統一は頓挫するのであった。
 こうして紆余曲折が続く中、両イエメンの統一を決定付けたのは、89年の米ソ両首脳による冷戦終結宣言やそれに続く東欧社会主義諸国のブルジョワ民主化革命よりも、86年の内乱後、体制維持が困難となった南イエメン側の切実な事情によるところが大きかった。
 とりわけ致命的だったのは、最大援助国ソ連からの経済援助が内乱後、半減されたことである。これは当時のソ連の「改革派」ゴルバチョフ政権が進めていた海外の同盟・衛星国からの一方的な援助引き上げ策の一環でもあったが、南イエメンのような不安定な新興衛星国にとって、ソ連からの援助は生命線であった。
 他方、北イエメンでは78年以来のサレハ政権が長期執権の下、政情安定化と一定の経済成長を実現させており、南イエメンに対しては優位な立場を築きつつあった。こうして、両イエメンは88年から統一へ向けた協議を本格的に開始し、翌年には正式に統一で合意、90年2月に統一が宣言された。
 このように南北イエメンの統一は同年10月の東西ドイツの統一にも先立ち、想定を越えるスピードで進められた。それだけ、南イエメン側には条件闘争に出るだけの余裕もなかったことを示唆する。
 新生統一イエメンの大統領には北イエメンのサレハ大統領が横滑りし、86年内乱後の南イエメンを党書記長として実質的に率いてきたベイドが副大統領に就任した。91年に国民投票で承認された統一憲法に基づき実施された93年議会選挙では、サレハの翼賛政党である人民全体会議が第一党を占め、旧南イエメン支配政党イエメン社会主義者党は第二党に甘んじた。
 このように両イエメン統一が旧北イエメン主導のペースで性急に推進され、統一イエメンも旧北イエメン優位の体制で構築されたことは、間もなく深刻な摩擦・紛争を引き起こすことになったであろう。