歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イエメン―忘れられた近代史(9)

八 「アラブの春」から内戦へ

 
 1994年の南北内戦に勝利し、統一イエメンの支配者としての地位を確実にしたサレハ大統領は、1999年大統領選挙で三選を果たした。事前の工作により、この選挙での候補者はサレハ一人だけの出来レースであった。
 調子づいたサレハは、大統領任期を従来の5年から7年に延長するなど、事実上の終身支配に向けた布石を打ち出す。こうした驕りは内外の批判を受け、05年、サレハは次期大統領選への不出馬を表明するも、7年任期での選挙年となる翌年にはあっさり公約を撤回した。
 06年選挙では野党の統一候補が立てられたが、結局はサレハが80パーセント近い得票率で圧勝した。これで2013年までの任期が確保されることになり、北イエメン時代からの通算で30年を超える長期執権となることは確実であった。
 この間、08年には無駄遣いの批判を押して、自らの名を冠した壮大な現代イスラム寺院アル‐サレハ・モスクの建造を強行するなど、サレハ政権は個人崇拝の性格も強めていた。対外的にも、世紀の変わり目頃からイランに接近し、体制保証の後ろ盾とし、03年のイラク戦争ではイラク支持を封印して、これを乗り切った。
 こうして内外共に磐石に見えたサレハ政権であるが、2011年以降アラブ諸国で続発した「アラブの春」の波を免れることはできなかった。これに対して、サレハは前例に従い、またも次期大統領選不出馬表明で沈静化を図ったが、成功せず、湾岸協力会議の仲介で早期退陣プロセスが用意された。
 しかし、いったんは退陣を受諾したサレハがまたも撤回したことから、再び反政府勢力との衝突が起きた。その渦中でサレハが大統領府に打ち込まれた反政府勢力の砲弾により重傷を負うという異例の事件が転機となった。
 再び湾岸協力会議の仲介で退陣と暫定政権移行の調整が行われ、翌12年2月の大統領選でハーディ副大統領が新たな大統領に選出されることで、北イエメン時代から34年近くに及んだサレハ体制にようやピリオドが打たれた。
 新大統領となったアブド・ラッブー・マンスール・ハーディは旧南イエメン軍人の出身ながら、サレハの信任を受けて統一イエメン副大統領に上り詰めた能吏タイプであり、混乱期にはふさわしく見えたが、事態はむしろ悪化し、イエメンは新たな内戦へと陥るのである。