四 東国支配の完成
7世紀までに、関東は国造制を通じて畿内王権の支配に組み込まれたとはいえ、交通・通信網が決定的に不備な時代、その支配はなお脆弱であった。
状況が変わるのは、7世紀半ばの大化の改新以降のことである。この政変をきっかけに畿内王権は、およそ半世紀をかけて超越的な君主たる天皇を頂点とする律令制の建設へ向かうこととなった。
律令国家建設のプロジェクトは、単に法令の整備にとどまらず、地方行政組織の刷新も含まれていた。大化の改新直後の地方制度大改正で、国造制が事実上解体され、評(こおり)制が導入された。各評には、評督・助督という二人の行政官を置き、在地豪族を任命して、ツートップ体制で中央への忠誠競争をさせるようにした。
このような制度改正は従来の国造という人中心の地方支配から評という行政単位を基礎とする支配に変革され、中央集権が強まったことを意味している。
大化の改新の首謀者の一人でもあった天智天皇の治世になると、百済存亡をめぐって戦った唐に対する防衛政策として、古代徴兵制である防人の制度が創設され、関東は兵士の給源となった。『万葉集』には防人の悲哀を主題とした歌が多数収録されているが、そこでは東国特有の方言も使われ、飛鳥時代に至っても言語的にはなお畿内との差異が大きかったことを窺わせている。
経済的には関東は全般に未開発かつ人口希薄であり、天皇王朝は西日本からの移住や百済滅亡後に亡命してきた百済人王族・貴族らの移住も奨励し、開発に当たらせた。関東に少なくない高麗、狛江など朝鮮半島由来の地名の少なくとも一部は、そうした渡来人移住政策の痕跡と考えられる。
律令国家建設の集大成となった8世紀初頭の大宝律令で国郡里制が敷かれ、全国的に国司の配置が展開されたことで、天皇王朝の関東支配も完成に達する。旧豪族らは国司の下でより狭い地域を管轄する郡司に格下げとなった。
律令制下の関東は、相模国、武蔵国、下総国、上総国、安房国、常陸国、上野国、下野国の八つの令制国に分けられるとともに、広域地方行政区分である五畿七道の制度も整備された。この区分は畿内を出発点とする道を基準とした地方区分であるため、関東地方が含まれる道は今もその名が残る太平洋岸の東海道と内陸の東山道である。
これに伴い、東海道の伊勢国の鈴鹿関、東山道の美濃国の不破関、北陸道の越前国の愛発〔あらち〕関の三関から東の地域を広く「関東」と称する通称的地理的概念が生じた。
こうした五畿七道を物理的に支える律令制的な交通システムである駅伝制の整備により、関東も畿内と直結され、以前に比べれば辺境ではなくなったとはいえ、しばしば流刑地にも利用されるなど、関東はなお周縁の地であった。
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