歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東通史―中心⇔辺境(8)

九 「東西幕府」の時代

 執権北条氏に乗っ取られた鎌倉幕府体制は、承久の乱での勝利により一応全国支配を確立するが、元寇という空前の「有事」対応を機に、北条得宗の独裁が強まり、御家人層の不満が募っていく。
 そうした機会をとらえ、閉塞していた朝廷勢力が14世紀に入って動き出す。後醍醐天皇という異色の闘争的な天皇を得たことで、この動きが加速していき、1333年、鎌倉幕府は打倒された。北条一族も滅亡した。
 これによって後醍醐天皇を頂点とする京都の天皇王朝が権力を奪回したため、鎌倉を首都とする関東は再び中心の地位を京都に譲ることとなった。後醍醐天皇は、関東統治のため、鎌倉将軍府を置くが、これは朝廷の関東支配機関にほかならなかった。
 しかし、周知のように、後醍醐天皇建武新政は評判が悪く、間もなく倒幕の立役者だった足利尊氏の離反を招き、南北朝時代が始まる。尊氏の属した足利氏は源義家の孫に当たる源義康を家祖とする源氏一門であり、源氏宗家断絶後は、源氏準宗家としての家格を持つ名門であった。
 従って、源氏系足利氏当主の尊氏が北朝を擁して征夷大将軍となって開いた室町幕府の成立は、源氏勢力が再び権力を奪回した意味を持っていた。
 ただ、足利氏の本拠はその苗字のとおり、栃木の足利であったところ、尊氏がゆかりのない京都に幕府を開いたのは便宜的な理由によるもので、当初、一門の間では幕府を引き続き鎌倉に置くべしとする意見も見られた。
 両論ある中で、尊氏としては、朝廷分裂という不正常な事態下にあって、北朝をバックにつけつつ、これをコントロールするためにも、ひとまず朝廷と同じ京都に幕府を置くという現実的判断をしたものと思われる。
 そのため、尊氏は一方では鎌倉にも出先機関として鎌倉府を設置し、四男の基氏を長官たる鎌倉公方に任命した。以後、鎌倉府は基氏の子孫が世襲統治したため、建武の新政下の鎌倉将軍府とは異なり、初期から独立の気風が強く、実質上「東西幕府」のような様相を呈した。
 このような東西二分体制は、15世紀に入るといっそう顕著となり、鎌倉府は独自に関東武士らと主従関係を結ぶようにすらなった。こうして、室町幕府下の関東はなし崩しに独立性を取り戻していく。

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