歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版足利公方実紀(連載第5回)

五 足利義満(1358年‐1408年)

 足利将軍中でも最も著名な3代将軍義満は、父・義詮の死去に伴い、11歳で将軍に就任した。このように年少での後継となったため、当初は管領細川頼之が政治の実権を持った。細川氏は足利氏庶流から出た足利一門であり、頼之以降、管領職を世襲する。
 前回見たように、頼之は先代の義詮が自作クーデターで斯波氏に代えて管領に抜擢した人物であったが、先代の見込みどおり忠実かつ有能で、政情がなお定まらない中、年少の義満を支え、南朝勢力の抑制にも努めた。幕府政庁が室町に定められたのも頼之実権時代であり、その意味で、厳密な室町時代とはこの時代に始まるとも言える。
 しかし、頼之は康暦元年=南朝天授五年(1379年)、突然罷免された。康暦の政変と呼ばれるこのクーデターは前管領斯波義将や尊氏時代以来古参の宿老・土岐頼康ら反頼之派が起こしたとされ、義満は彼らの要求に屈して頼之を罷免させられたことになっている。
 幕府内に派閥抗争があったのは事実としても、実際のところ、この政変を契機に、20歳を過ぎていた義満の親政が開始されていくので、義満自身が関与した自作クーデターの疑いは充分にある。この時点で頼之を粛清せず、十数年後には赦免し、宿老としての復帰を許していることも、この政変が頼之の権力をそぐことを目的としていたことを裏付ける。
 いずれにせよ、この政変を契機に義満は自身の権力を確立していく。その過程で、義満はまず興福寺に代表される寺社強訴勢力を抑え込むとともに、後ろ盾の北朝・公家にも食い込み、源氏長者として朝廷・公家勢力を統制するようになった。
 この時期のもう一つの課題は、南朝勢に代わって幕府体制の内在的な不安定要素となりつつあった守護大名勢の統制であった。守護大名は、細川頼之実権時代の応安元年=南朝正平二十三年(68年)に出された応安の半済令によって、鎌倉幕府以来の守護の土地支配が強化され、旧来の荘園・国衙領を侵食していったことにより成立したもので、これによって日本型の封建領主制が形成されていく。
 このことは守護大名勢に支えられた幕府の中央権力の弱体化を意味した。義満はこうした状況を食い止めるため、有力守護大名の抑圧を行なった。手始めは土岐氏征伐であった。土岐氏尾張・伊勢を所領とする美濃源氏系の名門で、康暦の政変では当主・頼康が功労者となったが、その後息子の康行が起こした一族内紛に付け込み、討伐、所領没収としたものである。
 その後も、明徳二年=南朝元中八年(91年)には足利氏とも親戚筋の新田氏庶流で、当時全国66か国中11か国の守護を兼ねたため「六分の一殿」の異名を取った山名氏を挑発し、討伐した。義満の守護大名征伐は隠居後も続き、応永六年(99年)には南北朝合一時の仲介人として功労もあった中国地方の土豪大名・大内氏を討伐している。
 義満親政前半期の集大成が明徳三年=南朝元中九年(92年)の南北朝合一であった。すでに南朝勢は先代の頃には弱化しており、この時期の合一は必然とも言えたが、義満の権力確立を背景として初めて実現したことではある。
 義満はこの合一を見届けた後、応永元年(94年)に将軍職を幼少の息子・義持に譲り、隠居した。これは室町将軍の生前譲位の初例であり、ここにも将軍権力の確立ぶりが窺える。しかし、隠居といっても形だけであり、この後応永十五年(1408年)の死去までの時期は義満が大御所として以前にも増して絶大の権力を握った親政後半期と言えた。
 親政後半期の事績としては、中国明朝との勘合貿易の開始がある。その際、義満は明朝皇帝から「日本国王」として冊封を受けており、少なくとも対外的には将軍が「君主」として認証されたことになる。義満には自身が皇位簒奪を狙っていたと指摘されるほど君主志向があったと見られるが、その念願は少なくとも対外的には果たされたのであった。
 彼が死去した時、朝廷はその権勢におもねってか、天皇並みに「太上法皇」の称号を追贈するが、これは後継者の四代将軍・義持によって辞退されたため、実現しなかった。
 こうして、年少での就任から大御所時代まで通算すれば40年近くに及んだ義満時代は終焉するが、守護大名統制という彼の目標は次第に公家化していく軟弱な子孫たちによって果たされることなく、幕府権力は彼の死後、多少の浮沈はあれ、弱体化の途をたどることになる。