歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イラクとシリア―混迷の近代史(15)

[E:six] イラク戦争と「内戦」

 [E:night]第二次イラク戦争
 第一次イラク戦争湾岸戦争)から第二次イラク戦争までには、12年のタイムラグがある。この間はフセイン政権の延命期と言えた。フセイン政権は、圧倒的な力の不均衡の中で行われた第一次戦争では徹底抗戦を避け、あえて早期に事実上降伏することで、延命に成功したのだった。
 とはいえ、この敗北は多方面からの反乱を招いた。最も大規模な反乱は、イラク社会で多数派を占める南部シーア派の反乱であった。この時は、一時国土の過半が反乱側の手に落ちたが、政権側も温存されていた精鋭部隊を投入して反撃、鎮圧に成功した。その際、政権軍の報復作戦で10万人とも言われる犠牲者を出した。この惨事はフセイン亡き後の宗派対立の遠因となる。
 その勢いで、フセイン政権がクルド人や南部湿地帯住民らの反乱に対する無慈悲な弾圧を強めたことで、米英仏はイラクに広域の飛行禁止空域を設定、イラクの制空権を奪った。これへの対抗上、フセイン政権は地対空ミサイルの配備などを進めたため、米英仏軍からしばしば限定攻撃を受けることとなった。
 この間、国連の制裁が継続し、国民経済が窮乏する中、フセイン政権はかえって焼け太り的に体制を強化していた。その際にフル稼働したのは、フセインにとって最大の権力基盤だった治安機関であった。従来からの個人崇拝的な施策もいっそう強化された。
 転機は、01年の9・11事件であった。これを機にアメリカはイラクが事件首謀集団のアル・カーイダを庇護しているとの不確かな情宣により、反イラクの姿勢を強めた。時の米政権の主は第一次戦争時のブッシュ大統領の子息であった。
 こうしたブッシュ政権の反イラク政策は政権一期目が曲がり角を過ぎた03年に至って戦争発動に結実する。この時、ブッシュ政権イラク大量破壊兵器を秘密裏に開発保有しているとの情報を流した。この情報は事後に虚偽と判明しているが、ブッシュ政権は父の政権が主導した第一次戦争の成果を無にしかねないフセインを最終的に葬るための口実を探していたと考えられる。
 こうして虚偽情報に基づいて始まった第二次イラク戦争は、イラククウェート侵略という大義名分のあった第一次戦争にもまして根拠を欠くものであったが、またしても米英主導の圧倒的な有志連合軍の前に、イラクは敗北した。逃亡したフセインは、同年末に潜伏先の隠れ家で米軍に逮捕された。
 第二次イラク戦争の結果、近代イラク史上最長の24年に及んだフセイン独裁政権はあっけなく崩壊した。同時に、前任のバクル政権時代から通算すれば、35年に及んだイラクバース党支配体制も終焉した。だが、イラクに民主主義は訪れず、代わって米英主導の占領統治が開始されるのである。