歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イラクとシリア―混迷の近代史(10)

[E:five] バース党の支配

[E:night]シリア・バース党の支配
 バース党“本家”のシリア・バース党が政治の前面に出てきたのは、1963年のクーデター時であった。その後、今日に至るまでの長いバース党支配の契機となったことから、クーデターの日付にちなんで「3月8日革命」とも呼ばれるこのクーデターは、党員の中堅将校で結成する党軍事委員会が主導したものであった。
 ここにはやはりアラブ連合問題が絡んでいた。その2年前のクーデターでアラブ連合からの離脱派が政権を取っていたが、63年のクーデターはアラブ連合再建派が起こしたものであった。
 しかし、63年クーデター後のバース党系軍事政権は再建のめどの立たないアラブ連合問題よりも、党創設者アフラクを奉じるアフラク派と軍将校を中心とした反アフラク派の間で権力闘争が続き安定しない中、66年、反アフラク派のリーダー格サラーフ・ジャディード将軍が主導する新たなクーデターが成功、アフラクとビータールの党共同創設者がともに追放されることで、ひとまず決着を見た。
 ジャディードは党イデオローグで文民出身のヌーレッディーン・アル‐アタッシーを大統領に擁立しつつ、自らは表向き党ナンバー2にとどまったが、穏健派のクーデターで失墜する70年まで、シリアの実質的な最高実力者として独裁的な権力を振るった。
 ジャディード主導政権は内政外交ともに妥協なき左派であり、内政面ではバース党一党支配体制を固めて社会主義的政策を敷くとともに、冷戦の只中にあってソ連と東側陣営に接近していった。またパレスティナ問題では反イスラエルの立場を明確にし、パレスティナ解放機構(PLO)を通じた解放闘争を支持するとともに、対イスラエル融和的なサウジアラビアなどとは対立した。
 このパレスティナ問題をめぐる党内対立は、67年の第三次中東戦争(六日戦争)でアラブ合同軍側のシリアが敗北し、ゴラン高原イスラエルに占領された後、次第に表面化していき、ジャディード政権の命取りともなった。
 この頃、ジャディードの対抗馬として台頭していたのは、ジャディードと同じ少数宗派アラウィー派に属する空軍出身のハーフィズ・アル‐アサド国防相であった。アサドは66年クーデターの「同志」であったが、その後は穏健派のリーダー格となり、ジャディードと距離を置き始めていたのだった。
 両者の対立は次第に激化し、70年にジャディードがアサド派を排除しようとしたことに対抗してアサド派が忠実な軍部隊を動かしてジャディードらを逮捕することで、最終決着した。ジャディードの強硬路線を修正しようとした穏健派の立場から「矯正運動」とも呼ばれるこの無血クーデターにより、ジャディード主導政権は崩壊、以後長期に及ぶアサド独裁体制が確立されていく。