歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イラクとシリア―混迷の近代史(8)

[E:four] アラブ連合の時代

[E:night]イラク共和革命とその後
 1958年にエジプトとシリアが統合されてアラブ連合共和国が成立した時、イラクはまだハーシム家の王政下にあった。アラブ連合の攻勢に危機感を抱いたイラクは対抗上、同じハーシム家が支配する隣国ヨルダン王国アラブ連邦を形成し、連邦元首にはイラクのファイサル2世が就いた。
 この前年、英国との条約が終了したヨルダンは完全独立国となったばかりで、不安定であった。そのため、イラクはヨルダンに援軍を派遣する手はずを整えたが、皮肉にもこれが命取りとなった。ヨルダン派遣部隊が反乱して、クーデターに発展したのだった。
 このクーデターを主導したのは、中堅軍人の秘密結社・自由将校団に属する職業軍人たちであった。その先頭にいたのが、アブドゥ・アル‐カーリム・カーシム准将とアブドゥル・サラーム・アーリフ大佐の二人であった。
 このクーデターは52年のナセルらによるエジプト革命同様、王政廃止・共和制樹立へと向かったため、イラクにおける共和革命の性質を持つものとなった。しかし、エジプトとの違いは、旧体制の国王、王太子、首相を皆殺しにした残忍性にあった。
 もう一つの違いは、ナセルが率いた中堅将校グループと同名を名乗りながら、イラク自由将校団は多様な勢力の寄せ集めだったことである。二人の指導者のうち、カーシムは共産党寄りのイラクナショナリストであったのに対し、アーリフはアラブ連合への統合を主張する汎アラブ主義のナセリストであった。
 二人の路線対立は、第一段階ではカーシム派が勝利し、アーリフ派を排除することで決着した。首相に就任したカーシムは党員ではなかったが共産党を支持基盤として、社会主義的な政策を強権的に進めた。これは一時的とはいえ、イスラーム圏の中東で共産党が国政上影響力を持った稀有の例であった。
 しかし、カーシム政権は持続しなかった。政情不安が続く中、アーリフを政権から排除しながら赦免した寛容さが裏目に出て、アーリフ派の反攻を招いた。63年、アーリフらが同じく政権から排除されていたバース党を味方につけてクーデターを敢行する。劣勢のカーシムは投降・亡命を申し出るもクーデター側は拒否し、カーシムは形ばかりの「即決裁判」により処刑された。
 こうして政権奪取に成功したアーリフは大統領に就任するが、今度はクーデターで重要な役割を担ったバース党との対立が表面化してきた。バース党は党実力者で軍人のアーメド・ハッサン・アル‐バクルを首相に出し、政権を実質上支配していたのだった。
 そこでアーリフはバース党に激しい武力弾圧を加え、いったんはその勢力を放逐することに成功した。こうして敵対勢力を一掃したアーリフは改めて持論であるエジプトとの統合へ向けた準備を慎重に進めていたところ、66年、搭乗していた空軍機の墜落事故により不慮の死を遂げた。
 事故はバース党の謀略の可能性も取りざたされたが、真相は不明のまま、後任にはアーリフの兄で国軍司令官のアブドゥル・ラフマーン・アーリフが就任した。穏健なアブドゥル・ラフマーンは弟の路線を基本的に継承したが、決断力に欠け、アラブ連合への統合も進まないまま、68年、攻勢に出たバース党のクーデターによりあえなく政権を追われ、亡命した。
 こうして58年の共和革命から68年のバース党クーデターまでのイラクでは安定政権が成立せず、軍部を舞台に党派的な軍人たちが権力闘争に明け暮れる10年であった。アブドゥル・ラフマーンが残した「過去を忘れ、未来を見据えることで、イラクに国民統合が訪れることを希望する」という言葉は、空しく響いた。