歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東通史―中心⇔辺境(跋)

十七 近現代の関東

 関東の概念は、これまで概観してきた通史の中で、幾度か変遷している。中世には東北を含めた東日本全域を指したこともあるが、本連載で前提としてきたのは、江戸時代に確立された「関東」の概念である。
 すなわち、それは江戸を防衛する箱根・小仏・碓氷の三関以東のいわゆる坂東八国であり、これが明治維新を経て、ほぼ今日の一都六県で構成される関東地方の概念に引き継がれている。
 明治維新後改めて全土の首都となった「東京」は江戸の遺産を継承したとはいえ、それまでの幕府の首府であった時代とはその位相を異にしている。最も大きな違いは、天皇が移り住み、「帝都」となったことである。
 「東京」という名称は、読んで字のごとく「東の京」という趣意で、「西の京」である京都を意識したものである。この新地名はすでに幕末前期の国家主義的思想家・佐藤信淵〔のぶひろ〕の主著『混同秘策』で提唱されていたというが、「江戸」とは異なり、歴史を持たない人工的な地名である。
 江戸時代には事実上まだ政経分離的に江戸と大坂が両都的な機能分化を保っていたが、天皇が在所する「帝都」となった東京にはすべてが集中するようになり、単なる政治首都ではなく、完全首都となった。
 こうして帝都東京を中心とする関東は、明治維新体制において、大日本帝国の核心地域として開発が進められ、人口集中も進んでいった。大正時代の関東大震災は、東京を中心に甚大な被害をもたらすが、これを機に遷都されることもなく、速やかに復興されていった。
 第二次大戦の敗戦による壊滅を経ても、東京を首都とする関東中心構造は不変であり、関東は高度経済成長の集中的なエンジンとなり、地方からの人口流入もいっそう増大した。この間、首都機能分散も叫ばれてきたが、本質的には進んでいない。
 関東中心構造は歴史的にも固着したかに見えるが、極度の一極集中には限界も見え始めており、未来永劫にこの構造が不変であるという保証はない。今、大阪を「都」に格上げすることを推進する政治勢力が大阪の地方政治を席巻しているのも、単なるブームを超えた地殻変動かもしれない。
 他方、日本本土の中間地点に当たる東海地方は、興味深いことに近世戦国期に順次「天下人」=最高執権者となった織田、豊臣、徳川の三氏を連続して輩出したにもかかわらず、首都が置かれることはなかった。将来改めて人工的に新都を設ける場合、東海地方は潜在的候補地となるかもしれない。 
 いずれにせよ、関東は中心と辺境の間を何度も往復してきた。関東が再び中心でなくなる時、日本の歴史はまた大きく動くであろう。