歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

日本語史異説―悲しき言語(連載第1回)

 筆者は、バイリンガルやそれ以上のマルチリンガルを尊ぶ近時の「グローバル化」風潮に反し、日本語を唯一の使用言語とするモノリンガルな人間である。それだけに、日本語の成り立ちについては、以前より関心を抱いてきた。
 しかし、日本語の起源及び成立史はこれまで内外の諸学者が取り組みながら、いまだに通説と言える学説を確立し得た者がいない。それだけ日本語は独自性が強いとも言えるが、そのことはこの言語を悲しいものにしている。
 言語学上異論なく日本語と同語族を形成する同祖の親縁な外語も存在しないため、日本語人の外語習得は英語はもとより、コリア語(本連載では、韓国・朝鮮語を総称してこう呼ぶことにする)のように比較的近似する言語であっても、容易でない。
 その事情は外語人にとっても同じであり、外語人の日本語習得は容易でないので、日本語が国際的に普及する可能性は乏しい。日本語人自体は1億人を越えながら、そのほとんどは日本国内にとどまり、日本語が公用語とされたり、国全域で通じるという外国は存在しない。まさに孤立言語である。
 とはいえ、日本語が他言語と一切の接触を絶って自生してきたわけでもなく、長い歴史を通じて、大きな言語体系転換や外字・外来語の大々的な摂取を経験しながら現代日本語が生成されてきたこともたしかである。
 比較言語学者と呼ばれる学者たちはかねてからそうした日本語史の研究を進めており、通説は確立されていないとはいえ、いくつかの有力学説は存在している。しかし、本連載では、比較言語学は排除されないまでも、正面からは展開されない。
 それには筆者がその分野に疎いという理由もあるが、比較言語学という学術の不安定さも理由となる。比較言語学は近似する複数の言語を古形まで遡って同時代の言語資料を相互比較しながらそれらの系譜関係や共通祖語を解明・再構していくものだが、そのような作業は比較資料の不足という限界から困難を極める。
 ただ、比較言語学者にはそうした困難を乗り越えてしまう「天才肌」が多く、その労作には感嘆させられることもあるが、それだけに個性も強く、諸説林立状態となりやすいのだろう。比較言語学は、永遠に未完の学術なのかもしれない。
 本連載では、比較言語学の成果に、言語の発生・発展要因となる民族集団の移住・定住史、近年のゲノム解読により発達著しい分子遺伝学の成果も重ね合わせることにより、日本語の起源・成立史を試論的に展開しようとしている。
 結果は、比較言語学における有力学説とは相当に異なるものとなった。これは日本語モノリンガルの筆者自身にとっては愛しき言語でもある日本語再発見の旅である。もちろん、いつもながら、邪説としての批判・黙殺は覚悟のうえである。