歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第4回)

三 松平長親(1473年‐1544年)

 松平長親〔ながちか〕は松平家の史実上の家祖・信光の孫に当たる。父は信光の子・親忠〔ちかただ〕だが、親忠は長寿を保った信光から家督を相続した時、すでに高齢であり、ほどなく息子の長親に家督を譲って隠居した。
 長親の使命は、祖父が一代で築いた国人領主家・松平氏をいっそう発展させることにあったが、この頃、駿河国を拠点とする今川氏の攻勢が強まってくる。今川氏は松平氏とは異なり、源氏系足利氏に連なる吉良氏の分家として、明白に源氏系の系譜をたどれる強大な名門守護大名であった。
 長親の時代の今川氏当主は有名な今川義元の父・氏親〔うじちか〕であった。今川氏は本来、駿河国を越えて遠江国まで支配していたが、1419年以降、同じ足利一門の斯波氏に奪われていた遠江奪還が今川氏累代の宿願となっていた。氏親の遠江派遣軍の指揮を執ったのは、氏親の母方のおじに当たる伊勢盛時(後の北条早雲)であった。
 早雲の軍勢は15世紀末に遠江中部を押さえると、16世紀初頭以降さらに西三河にも兵を進めたため、この地の国人領主となっていた松平氏も早雲軍から攻められることになった。これに対し、時の当主長親は自ら兵を率いて戦い、わずか500余の兵で1万余の今川勢を撃退したとされる。誇張はあるにせよ、当時の松平氏の軍事動員力が今川氏とは比べものにならなかったことは確かであるが、長親も勇猛かつ有能な武将だったようである。
 長親は今川勢を撃退したのに前後して、まだ30代ながら突然幼少の息子・信忠に家督を譲って隠居したが、実権は掌握し続けた。これは後に徳川氏で隠居した先代による大御所政治がしばしば見られたことの先例であるかもしれない。
 とはいえ、長親の早期隠居は松平氏が一時衰微するきっかけとなった。長じた信忠は暗愚で、家臣団からも信頼されず、結局側近らの嘆願で長親も信忠の早期隠居、孫の清康への家督相続を決めたのである。一方で、家臣団の間では次男の信定(桜井松平家始祖)を支持する声が強く、信定自身も家督継承の野心を隠さず、お家騒動のもととなった。
 ただ、長親自身は比較的長命で、清康が不慮の死により夭折し曽孫の広忠が家督を継ぐまで事実上の家長として采配していたと見られ、こうした「院政」期も含めれば半世紀近い長親の時代に家臣団の整備など大名としての基礎が徐々に固まっていったものと考えられる。
 とはいえ、強大な今川氏の脅威は何ら減じておらず、松平氏の実態はまだ自立的な戦国大名と呼べるようなものではなかった。実際、清康早世後、清康の孫に当たる家康の台頭まで松平氏は今川氏に従属する状態となる。