歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

2014-01-01から1年間の記事一覧

抵抗の東北史(連載第2回)

一 先史東北の形成 東北地方の先史時代に関しては、主に宮城県を舞台とした在野の考古学研究家による旧石器遺跡捏造が2000年に発覚して以来、それまで当該研究家の「功績」に帰せられてきた前・中期旧石器時代の存在が白紙に戻ることとなった。この事件…

抵抗の東北史(連載第1回)

前言 2011年3月の東日本大震災で最も甚大な被害を蒙ったのが、東北地方であった。その際に被災民たちが示した不屈の忍耐強さは世界で日本人の精神性として賞賛されたが、この賛辞は実のところ、あまり正確とは言えなかった。震災の時に示されたのは、「…

私家版松平徳川実紀(連載第11回)

十一 徳川家綱(1641年‐1680年) 徳川家綱は3代将軍家光の側室との間に生まれた長男であったが、比較的遅く出来た子であったため、父死去を受けて将軍に就任した時は、まだ10歳であった。幼少の身で将軍位を継承できたのは、父の代までに幕府の権…

私家版松平徳川実紀(連載第10回)

十 徳川家光(1604年‐1651年) 徳川家光は前将軍・秀忠の次男であったが、兄が夭折したため、事実上は長男格であった。家光の30年近い治世の最初の三分の一は父・秀忠が大御所として後見した。父が寛永九年(1632年)に死去して以降は、単独統…

私家版松平徳川実紀(連載第9回)

八 徳川頼宣(1602年‐1671年) 徳川家康の晩年に生まれた御三家家祖三兄弟の中でも、歴史結果的に最も重要なキーパーソンとなるのが、紀伊徳川家家祖・頼宣〔よりのぶ〕である。彼は家康の十男として生まれ、初め水戸に所領を与えられるが、駿府転封…

私家版松平徳川実紀(連載第8回)

七 徳川秀忠(1579年‐1632年) 徳川秀忠は家康の三男であったが、長兄・信康は秀忠が誕生した年に素行不良等の理由で父の命により切腹し、次兄の秀康(越前松平家家祖)は政略から豊臣氏、次いで結城氏の養子に出されたため、三男の秀忠に将軍位が転…

私家版松平徳川実紀(連載第7回)

六 徳川家康(1543年‐1616年) 今さら言うまでもない徳川宗家の創始者である。彼は先代松平広忠の唯一の男子として生まれたが、彼が生まれた時期の松平氏は歴史上最も苦境の中にあった。広忠の項でも述べたとおり、幼少の家康は今川氏の人質として移…

私家版松平徳川実紀(連載第6回)

五 松平広忠(1526年‐1549年) 松平徳川氏の全史を通じて、この人ほど薄幸の当主はいなかっただろう。広忠は父の清康が守山崩れで不慮の死を遂げた直後に宗家乗っ取りを図った叔父の松平信定一派によって岡崎城を追放され、従者らと伊勢方面を放浪す…

私家版松平徳川実紀(連載第5回)

四 松平清康(1511年‐1535年) 松平清康は、家臣団の信頼がなかった父・信忠の早期隠居を受けて、幼少で家督を相続した。祖父・長親の後見があったとはいえ、彼は周囲の期待どおり早くから武将としての才覚を発揮し始める。まだ15歳の頃には、宗家…

私家版松平徳川実紀(連載第4回)

三 松平長親(1473年‐1544年) 松平長親〔ながちか〕は松平家の史実上の家祖・信光の孫に当たる。父は信光の子・親忠〔ちかただ〕だが、親忠は長寿を保った信光から家督を相続した時、すでに高齢であり、ほどなく息子の長親に家督を譲って隠居した。…

私家版松平徳川実紀(連載第3回)

二 松平信光(生没年不詳) 現在のところ、初期松平氏の当主として史料に名が見えるのは、家系図上3代目の松平信光からである。信光の父は系図上2代目泰親とされるが、初代親氏の子とする説もあり、父母も生没年も不詳である。親氏・泰親二代は造作の可能…

私家版松平徳川実紀(連載第2回)

一 松平親氏/泰親(伝承) 関東平野を縦貫する東武伊勢崎線に世良田〔せらだ〕という鄙びた小さな駅がある。今日は群馬県太田市に属するこの世良田が松平徳川氏の系図上の家祖・松平親氏〔ちかうじ〕の出た新田氏系世良田氏の本貫地であることから、松平徳…

私家版松平徳川実紀(連載第1回)

序 戦国大名は源氏系や藤原氏系を公称したがったが、明白に系譜関係をたどれる一部例外を除き、ほとんどの戦国大名は地方の国人領主や土豪の出自にすぎなかった。であればこそ、武力で下克上して階級上昇を果たす中で、家系の由緒来歴を飾るため、家系図を捏…